前の記事まで、漱石が、対句・漢語・文体の使い分けを通じて、格調の高い日本語を操っていたことを見てきた。だが、漱石の日本語には、もう一つ、重要な側面がある。方言や、教育のない者の話し言葉を、物語の中心に据えることを、彼は、まったく躊躇しなかった。

松山の生徒たちの、伊予弁

『坊っちゃん』を言語の視点で読む特集で読んだように、松山中学校の生徒たちは、江戸っ子の語り手「おれ」に、こう応じる。

あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣って、おくれんかな、もし。

「けれ」「もし」——伊予弁特有の語尾である。この方言は、単なる背景描写としてではなく、物語そのものを動かす、笑いとドラマの原動力として使われている(詳しくは、この記事)。

車屋の黒の、俗な江戸弁

『吾輩は猫である』を言語の視点で読む特集で読んだ、近所の野良猫「車屋の黒」も、教育のない者の、崩れた話し言葉で語る。

何、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ。全てえどこに住んでるんだ。

「あきれらあ」「全てえ」——江戸下町の、伝統的な、崩れた発音を写した表記である(詳しくは、この記事)。

なぜ、これが重要なのか

明治期、まだ「標準語」という規範が、教育やメディアを通じて、十分に確立していなかった時代——方言や俗語を、そのまま文学作品の会話文に持ち込むことは、当たり前の選択ではなかった。当時の文学には、地の文を格調高い文体で統一し、登場人物の会話も、ある程度、整えた言葉で描く、という書き方も、十分にあり得た。だが、漱石は、その逆を選んだ。格調高い地の文(対句、漢語)と、崩れた話し言葉(方言、俗語)を、同じ作品のなかで、意図的に衝突させるという書き方を、繰り返し採用している。

対句・漢語との、対称性

ここで、第2記事、第3記事で見た、対句や漢語の技法と、この方言・俗語の技法を、並べてみよう。

対句・漢語方言・俗語
由来漢文・漢籍の伝統各地域・各階層の、生きた話し言葉
効果格調・思考の凝縮を示す人物の背景・階級を、瞬時に伝える
現れる場所地の文、独白おもに会話文
共通点どちらも、標準的な「正しい書き言葉」の外側にある要素を、積極的に取り込んでいる

漢文由来の対句も、地方の方言も、当時確立しつつあった「標準的な言文一致体」からすれば、どちらも、ある意味で規範の外側にある要素である。漱石は、この両極——古典的な格調と、生きた俗語——を、同じ筆で、恐れずに書き分けていた。

対句・漢語 漢文・漢籍の伝統 格調・思考の凝縮 方言・俗語 各地域・各階層の話し言葉 人物の背景を瞬時に伝える どちらも、標準的な言文一致体の「外側」にある要素——漱石は両極を恐れず書き分けた 図:ToL(既刊特集の分析を統合したもの)
規範の両側——対句・漢語と、方言・俗語。図:ToL

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、『坊っちゃん』の特集ですでに指摘したように、漱石の方言描写は、実際の方言を、小説的効果のために、ある程度誇張・単純化している可能性が高い。 この記事も、その限界を踏まえたうえで、方言を文学に持ち込むという、姿勢そのものを評価している。

第二に、「標準語」という規範が、明治期にどの程度確立していたかについて、この記事は、大枠の見取り図を示すにとどめている。 学校教育やメディアを通じた標準語の普及史は、この記事の範囲を超える、より専門的な研究領域である。

まとめ

論点内容
伊予弁松山の生徒たちの「ぞなもし」——物語を動かす原動力として使われる
江戸の俗語車屋の黒の「あきれらあ」——教育のなさを、話し言葉だけで示す
重要性方言・俗語を文学の中心に据えることは、当時、当たり前の選択ではなかった
対句・漢語との対称性どちらも、標準的な言文一致体の外側にある要素を、積極的に取り込んでいる

一言でいえば——漱石は、漢文由来の格調高い対句と、方言・俗語という、規範の両極を、同じ筆で、恐れずに書き分けていた。