前の記事で見た、江戸っ子の「おれ」に対して、松山の生徒たちは、独特の語尾を持つ言葉で応じる。この記事では、実際に教室でどんな言葉のすれ違いが起きるかを、原文に即して読む。
「おくれんかな、もし」
赴任二日目、数学の授業で、生徒の一人が、こう申し出る。
あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣って、おくれんかな、もし。
「けれ」は理由を表す接続助詞(東京弁の「〜から」にあたる)、「もし」は文末の呼びかけの語である。「おれ」は、この言葉を、こう評する。
おくれんかな、もしは生温るい言葉だ。
「生温るい」(なまぬるい)という評価がおもしろい。速度をゆるめてほしいという、ごく単純な依頼の言葉が、「おれ」には、間延びして、迫力のない言葉に聞こえている。これは、語彙や文法の違いというより、リズムの違いへの違和感である。
天麩羅事件——「ぞな、もし」の反復
もっとも有名な言語衝突の場面は、いわゆる「天麩羅事件」だろう。「おれ」が蕎麦屋で天麩羅を四杯食べたことを、生徒が黒板に書いてからかう。
天麩羅先生とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑った。おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ可笑しいかと聞いた。すると生徒の一人が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。
「ぞな、もし」は、伊予弁の典型的な文末表現である。生徒は、これをからかいの道具として、繰り返し使う。黒板の悪戯は、次の授業でも続く。
一つ天麩羅四杯なり。但し笑うべからず。と黒板にかいてある。
「おれ」は、この執拗さに、こう毒づく。
田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押して行っても構わないと云う了見だろう。
バッタ事件——「なもし」と「菜飯」
もう一つの有名な場面が、寄宿舎の「バッタ」(イナゴ)事件である。生徒がバッタを「おれ」の布団に入れたことをめぐる、こんなやり取りがある。
「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣り込めた。「篦棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まえてなもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。
「おれ」は、伊予弁の「なもし」を、意図的に「菜飯」(なめし、野菜飯)と聞き違えたふりをして、駄洒落で切り返している。生徒は、すかさず「なもしと菜飯とは違う」と訂正する。この一往復は、単なる罵り合いではなく、音の類似を利用した言葉遊びになっている点で、この小説の言語感覚の鋭さをよく示している。
宿の女将の言葉
方言の摩擦は、生徒とのやり取りだけではない。下宿先の老婆も、終始「ぞなもし」を使い続ける。
どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにお出でなんだのぞなもしなどと質問をする。
「おれ」は、からかい半分に、伊予弁を真似てみせることもある。
それじゃ僕も二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似て頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。
方言模倣がうまくいかず、老婆に真に受けられてしまう、という小さな失敗も、ここには書き込まれている。
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、この小説の伊予弁は、実際の松山方言を、ある程度誇張・単純化して描いている可能性が高い。 漱石自身、松山中学校(現・松山東高等学校)に赴任した経験を持ち、実地の言葉を知る立場にあったが、小説としての効果を優先して、「ぞなもし」を、代表的な特徴として、繰り返し前面に出している。この特集では、伊予弁の言語学的な正確さそのものは検証しておらず、小説内でどう機能しているかという観点に絞って読んでいる。
第二に、方言をめぐるやり取りは、つねに「おれ」の側からの視点で語られる。 生徒たちが、実際に東京弁をどう聞いていたかは、この一人称小説からは、直接には分からない。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 「おくれんかな、もし」 | 依頼の言葉が、リズムの違いから「生温るい」と評される |
| 天麩羅事件 | 「ぞな、もし」を使ったからかいが、黒板を通じて繰り返される |
| なもし/菜飯 | 音の類似を利用した駄洒落の応酬 |
| 宿の女将 | 「おれ」の方言模倣が、真に受けられて空振りする |
一言でいえば——『坊っちゃん』の教室と宿は、語彙・文法・リズム・音というあらゆる面で、東京の言葉と松山の言葉がすれ違い、そのすれ違いそのものが、笑いの源になっている。