全体像で触れたように、漱石の日本語には、短く引き締まった対句のリズムと、密度の高い漢語という、対照的な二つの側面がある。まず、前者——『草枕』の、日本近代文学でもっとも有名な冒頭の一つを、詳しく読む。

四つの短い句

『草枕』は、こう始まる。

山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

「山路を登りながら、こう考えた」という、状況説明の一文のあと、四つの短い句が、間を置かずに畳みかけられる。それぞれの句は、ほぼ同じ長さ、ほぼ同じ構文——「〜すれば(〜させば)、〜だ」——を繰り返している。

同じ型、違う中身

この四句を、構文だけ取り出して並べてみると、その規則性がよく分かる。

句条件節帰結
1智に働けば角が立つ
2情に棹させば流される
3意地を通せば窮屈だ
4(まとめ)とかくに人の世は住みにくい

最初の三句は、「知性・感情・意地」という、人間の心の働き方を、三つの角度から、順に試している。どれを選んでも、うまくいかない——という結論に、三つとも同じ速さで到達する。この反復のリズムが、四句目の「とかくに人の世は住みにくい」という、短いまとめの言葉に、大きな説得力を与えている。

対句という、漢文由来の技法

この技法——意味の近い、あるいは対照的な句を、同じ構文で並べる書き方——は、対句と呼ばれ、もともとは漢文(中国古典の文章)に由来する、伝統的な修辞技法である。漢詩や、江戸期の漢文訓読体の文章に、頻繁に見られる形式であり、漱石は、大学で漢学の素養も身につけていた。この対句のリズムを、話し言葉に近い、口語的な文体(言文一致体)のなかに取り込んでいる点に、『草枕』冒頭の技巧がある。

リズムが変わる、次の段落

ところが、この四句のあと、文章のリズムは、一転する。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

対句の反復は終わり、より長く、説明的な文へと移っていく。短く畳みかけるリズムから、長く展開するリズムへ——この切り替えそのものが、読者の注意を引きつける、一つの技巧になっている。この段落からさらに数段落先で、文章は、いっそう密度の高い、漢語まみれの一文へと変化していく。その変化については、第6記事で、詳しく読む。

智に働けば → 角が立つ 知性を試す 情に棹させば → 流される 感情を試す 意地を通せば → 窮屈だ 意地を試す とかくに人の世は住みにくい 図:ToL(『草枕』冒頭四句の構文分析による)
三つの対句が、一つの結論に収束する。図:ToL

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、「対句」という技法の分類そのものは、ToLによる分析上の呼び名であり、漱石自身が、この四句を「対句」として意識的に設計したと明言している記録は、この記事では確認していない。

第二に、この冒頭が「名文句」として、どのように受容され、記憶されてきたかという、受容史的な側面は、この記事の範囲外である。 この記事は、あくまで、文の構造そのものに絞って分析している。

まとめ

論点内容
四句の構造「〜すれば、〜だ」という同じ構文が、三回繰り返される
内容の展開知性・感情・意地という、三つの角度から、同じ結論に至る
由来漢文の対句という、伝統的な修辞技法を、口語的な文体に取り込んでいる
リズムの転換短い対句のあと、文章は、より長く説明的なリズムへ移っていく

一言でいえば——『草枕』冒頭の四句は、漢文由来の対句という技法を使い、同じ構文の反復によって、短い言葉に、大きな説得力を与えている。