前の記事まで、漱石の語彙——和語と漢語の使い分け——を見てきた。この記事では、語彙ではなく、文体そのもの——文末の形——に注目する。

漱石が受け継いだもの

漱石が小説を書き始めたのは、1905年である。それ以前、明治10年代(1880年代前半)から、江戸時代までの書き言葉(候文・漢文訓読体)を離れ、話し言葉に近い文体で小説を書こうとする動き——言文一致運動——が、すでに始まっていた。その先駆けとされるのが、二葉亭四迷の小説『浮雲』(1887年)である。三島由紀夫『文章読本』を読む特集の記事で見たように、三島自身、「二葉亭四迷以後、われわれの文章は革命的変化を経ました」と評している。

漱石が小説を書き始めた1905年は、『浮雲』から、すでに18年が経っていた。つまり、漱石は、言文一致体という文体を、ゼロから作り出した人物ではなく、すでに一定の実績を持つようになっていたその文体を受け継ぎ、さらに練り上げた作家として位置づけるのが、正確だろう。

小説の文末——「だ・である」

『坊っちゃん』の冒頭を、文末の形に注目して読み直してみよう。

親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。

「している」——現在の状態を、淡々と言い切る、である体(普通体)である。この文体は、『こころ』(記事009)、『草枕』(記事263)でも、一貫して使われている。漱石の小説の地の文は、ほぼ例外なく、この「だ・である」体で書かれている。

講演の文末——「であります」

ところが、同じ漱石が、1914年の講演「私の個人主義」では、まったく違う文末を使っている。

私は個人主義だと公言して憚らないつもりであります。

私はあなたがたが自由にあらん事を切望するものであります。

「であります」——聴衆に向かって、直接、丁寧に語りかける、敬体(丁寧体)である。小説の「だ・である」体とは、明確に位相が異なる。これは、『私の個人主義』の特集で読んだ、学習院の生徒たちに向けた、講演という場にふさわしい文体である。

場面に応じた、使い分け

この違いは、単純だが、重要な事実を示している。漱石にとって、「だ・である」体は、唯一絶対の「正しい現代文」ではなく、小説の地の文にふさわしい、一つの選択肢だった。講演という、話し相手が目の前にいる場面では、彼は迷わず、丁寧な「であります」体を選んでいる。

小説(『坊っちゃん』『こころ』『草枕』)講演(『私の個人主義』)
文末だ・である(普通体)であります(敬体)
想定される読者・聴衆不特定の読者目の前にいる、学習院の生徒たち
機能地の文として、出来事や心理を語る聴衆に、直接語りかける

言文一致体は、この時代、まだ「一つの型」に固まりきっていなかった。漱石は、その複数の可能性のなかから、場面に応じて、適切な文体を選び取っていたのである。

小説の地の文 「だ・である」体 『坊っちゃん』『こころ』『草枕』 講演 「であります」体 『私の個人主義』 言文一致体は、まだ一つの型に固まっておらず、場面に応じて選び取るものだった 図:ToL(既刊特集で読んだ漱石作品の文体比較による)
小説と講演、二つの文体。図:ToL

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、言文一致運動の詳しい歴史(二葉亭四迷以前の試みや、他の作家たちの貢献)は、この記事の範囲を超える。 ここでは、漱石が、すでにある程度確立されていた文体を受け継いだ、という大枠の位置づけにとどめている。

第二に、「であります」体が、講演という場面に一般的だったのか、漱石個人の選択だったのかは、この記事では検証していない。 他の同時代の講演記録との比較は、今後の課題である。

まとめ

論点内容
受け継いだもの二葉亭四迷『浮雲』(1887年)以来の言文一致体を、すでに一定の実績を持つ文体として受け継いだ
小説の文体「だ・である」体——不特定の読者に向けた、地の文の文体
講演の文体「であります」体——目の前の聴衆に直接語りかける、丁寧体
漱石の位置づけ言文一致体をゼロから作った人物ではなく、複数の可能性のなかから選び、練り上げた作家

一言でいえば——漱石は、言文一致体という、まだ定まりきっていなかった新しい文体を受け継ぎ、小説では「だ・である」、講演では「であります」と、場面に応じて、的確に使い分けていた。