この特集では、『吾輩は猫である』を、猫という卑小な存在と、大仰で教養ぶった言葉との落差という、言語の視点から、6本の記事で読んできた(全体像)。ここで、この小説の言語技術のうち、いまも通用するものと、明治期の知的流行を映しているものを、整理する。

いまも通用する技術

register(言葉の格式)の落差を、笑いに変える技法(第2記事、第5記事)は、時代を超えて有効な、普遍的な喜劇の技法である。瑣末な出来事を、大仰な言葉で語る——「餅と真理」の場面に集約されるこの手法は、今日のコメディやパロディにも、広く応用されている。

話し言葉の崩れ方で、教育・階級を表現する技法(第3記事)も、『坊っちゃん』の方言表現と並んで、今日の創作にも通用する、有効な技術である。「あきれらあ」「御めえ」といった、崩れた語形だけで、車屋の黒の背景を、瞬時に読者に伝える手際は、鮮やかである。

口癖とあだ名による人物造形(第4記事)も、『坊っちゃん』の同種の技法と合わせて、漱石が繰り返し使った、有効な手法として、今日でも通用する。

時代の知的流行を映すもの

一方で、いくつかの点は、当時の知的流行を反映した、時代限定の要素として、意識して読む必要がある。

猫が使う「真理」「感得」「逢着」といった語彙(第5記事)は、明治期に西洋哲学の翻訳語として輸入され、当時の知識人のあいだで、もてはやされていた言葉群である。この小説自体が、そうした翻訳語・学術語の氾濫を、意識的にパロディの材料にしている可能性が高い。今日の読者にとっては、これらの語彙が、当時どれほど「流行語」的な響きを持っていたかは、直感的には分かりにくく、注釈的な理解を必要とする。

二つの小説、二つの実験

この特集と、『坊っちゃん』の特集を通して読むと、漱石が、ほぼ同じ時期(1905年から1906年)に、言語をめぐる二つの、まったく異なる実験を行っていたことが見えてくる。『坊っちゃん』は、地域(江戸と松山)の言葉の衝突を、物語の推進力にした。『吾輩は猫である』は、種(猫と人間)と、教養の有無という、格式の衝突を、笑いの源泉にした。同じ作家が、同じ数年のあいだに、これほど異なる言語的発想で、二つの傑作を書き分けたことは、漱石の言語感覚の幅の広さを、何より雄弁に物語っている。

いまも通用すること、時代の流行 いまも通用する 言葉の格式と現実の落差を笑いに変える 話し言葉の崩れで教育・階級を示す 口癖とあだ名による人物造形 時代の知的流行を映す 「真理」「感得」など、明治の翻訳語彙 西洋哲学ブームのパロディという側面 図:ToL(この特集の6記事の分析による)
いまも通用すること、時代の知的流行。図:ToL

まとめ

分類論点
いまも通用する言葉の格式の落差を笑いに変える技法、話し言葉の崩れで教育・階級を示す技法、口癖とあだ名
時代の知的流行を映す「真理」「感得」などの明治の翻訳語彙、西洋哲学ブームのパロディ
『坊っちゃん』との関係同じ時期に、地域(方言)と格式(教養)という、まったく別の軸で言語実験を行った

一言でいえば——『吾輩は猫である』の中心技術——言葉の格式と現実との落差——は、今日でも通用する、普遍的な喜劇の原理である。ただし、それを飾る明治期の翻訳語彙は、時代の知的流行として、意識して読む必要がある。