全体像で見たように、この小説の笑いは、猫という卑小な存在と、大仰な言葉との落差から生まれる。その落差を作る、もっとも基本的な選択——一人称——から確かめよう。
「吾輩」という選択
『坊っちゃん』の語り手は「おれ」を、『こころ』の語り手は「私(わたくし)」を使った(記事009、記事253)。この小説の語り手は、「吾輩」を選ぶ。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
「吾輩」は、明治期には、身分の高い男性や、目上の立場にある者が、対等以下の相手に向けて使う、尊大な一人称だった。名前すら持たない、宿無しの子猫が、この言葉を選ぶこと自体に、すでに強いユーモアがある。
生い立ちの語り——大げさな言葉づかい
猫は、自分の生い立ちを語るときにも、この尊大さを崩さない。生まれた場所も分からず、笹原に捨てられ、飢えて彷徨った末に、教師の家に拾われる——内容としては、みじめな話であるにもかかわらず、その語り口は、堂々としている。
縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩はついに路傍に餓死したかも知れんのである。一樹の蔭とはよく云ったものだ。
「一樹の蔭」ということわざを引用し、自分の運命を、まるで人生訓のように語る。捨て猫の偶然の生存を、格言つきで振り返る——この大仰さが、笑いを誘う。
人間への評価——上から目線
猫は、自分を拾った人間たち(主人の家族)を、終始、観察・評価する立場に立つ。
吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。
「断言せざるを得ない」という、学術的な結論めいた言い回しが、些細な家庭内の出来事の後に置かれる。猫は、自分が飼われている立場でありながら、人間を、観察対象として、上から評価し続けるのである。
漢語を惜しみなく使う語彙
この猫の語彙には、「浩然の気を養う」「嘆賞の念」「窃かに」「傲然」「傍若無人」といった、漢籍由来の、格調高い表現が、頻繁に現れる。近所の飼い主のいない黒猫(第3記事で詳しく読む)を観察する場面でも、こう評する。
彼は猫中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。
「猫中の大王」「偉大なる体格」——ただの大きな野良猫を、まるで王侯を評するような言葉で描写する。この語彙の選び方そのものが、猫という存在との、埋めがたい落差を作り出している。
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、「吾輩」という一人称の選択が、当時の読者にどう受け止められたかは、この記事では検証していない。 現代の読者にとって「吾輩」は、この小説の影響もあって、むしろ滑稽な響きを持つ言葉として定着しているが、明治期における実際の使用頻度や社会的な位置づけは、別途の調査が必要である。
第二に、この記事で確認した語彙は、いずれも小説の冒頭部分からの抜粋であり、全篇を通じて同じ密度で使われているかどうかは、この記事では検証していない。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 一人称 | 「吾輩」——対等以上の相手に使う、尊大な代名詞 |
| 生い立ちの語り | みじめな経験を、ことわざや格言つきで、堂々と振り返る |
| 人間への評価 | 飼われている立場でありながら、上から目線で評価し続ける |
| 語彙 | 「浩然の気」「傲然」など、漢籍由来の格調高い表現を多用する |
一言でいえば——この猫の「吾輩」という一人称と、漢語まじりの語彙が、卑小な猫という存在との、埋めがたい落差を作り出し、それが、この小説の笑いの基盤になっている。