この特集の最後の精読として、『吾輩は猫である』の、最初の一文と、最後の一文に戻る。そして、『坊っちゃん』、『こころ』の冒頭とも並べて、漱石が、三つの小説で、まったく違う「声」を作り分けていたことを確かめる。

最初の一文——「名前はまだ無い」

『吾輩は猫である』は、この二文から始まる。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

「吾輩は猫である」という、存在の宣言のあとに、「名前はまだ無い」という、否定形の短い一文が続く。名前がないという、ごく単純な事実の提示だが、この二文の並びには、独特の効果がある。尊大な一人称「吾輩」で始まりながら、次の瞬間には、名前すら持たない、もっとも卑小な存在であることが明かされる——この小説全体を貫く、「大仰な言葉」と「卑小な現実」の落差が、最初の二文に、すでに凝縮されているのである。

最期の一文——「ありがたいありがたい」

物語の終わり、「吾輩」は、酒を飲んで酔っ払った末に、水甕に落ち、溺れて死んでいく。その最期の内的独白は、こう締めくくられる。

次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。……吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。

「南無阿弥陀仏」という、仏教の念仏を、猫が唱える——これも、最初の一文と同じ種類の、大仰さと卑小さの同居である。溺れ死ぬという、決して立派とは言えない死に方を、まるで悟りを開いた高僧の入寂であるかのような、荘重な言葉で締めくくっている。

三つの冒頭、三つの声

ここで、『坊っちゃん』、『こころ』の冒頭と、並べてみよう。

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』
一人称吾輩おれ私(わたくし)
第一文「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」「私はその人を常に先生と呼んでいた。」
声の性格尊大・大仰。卑小な現実との落差で笑いを生む性急・断定的。証拠は後追いで示される慎重・説明的。理由づけを積み重ねる
落差の種類語彙の格式と、猫という存在の卑小さなし(性格と文体が一致)なし(性格と文体が一致)

『坊っちゃん』と『こころ』は、前回の精読で見たように、語り手の性格と、文体の速度とが、一致していた。だが、『吾輩は猫である』は、これらとは、根本的に異なる原理で作られている。語り手の言葉(尊大・大仰)と、語り手の存在(卑小な猫)とが、あえて一致しないことによって、笑いを生んでいるのである。

『坊っちゃん』『こころ』 語り手の性格と、文体の速度が一致する 性急な語り手は速い文体、慎重な語り手は遅い文体 『吾輩は猫である』 語り手の言葉と、語り手の存在があえて一致しない 尊大な言葉と、卑小な猫という存在との落差 漱石は、一致による説得力と、不一致による笑いを、両方の技法として使い分けている 図:ToL(三作品の冒頭の構造比較による)
三つの冒頭、三つの声の作り方。図:ToL

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、この三作品の比較は、発表順(『吾輩は猫である』1905年、『坊っちゃん』1906年、『こころ』1914年)に、漱石の文体が一貫して変化したことを示すものではない。 三作品は、それぞれ独立した実験として読むのが適切である。

第二に、「南無阿弥陀仏」という言葉を、猫が本当に信仰的な意味で唱えているのか、それとも、人間の宗教的言辞を、最後まで滑稽に借用しているだけなのかは、本文だけからは断定できない。 この記事では、後者に近い読み方——最初の一文と呼応する、大仰さと卑小さの同居——として扱った。

まとめ

論点内容
最初の一文尊大な「吾輩」の宣言の直後に、名前がないという卑小な事実が続く
最期の一文溺死という卑小な結末を、念仏という荘重な言葉で締めくくる
三作品の比較『坊っちゃん』『こころ』は性格と文体が一致、『吾輩は猫である』はあえて不一致
漱石の技法一致による説得力(坊っちゃん・こころ)と、不一致による笑い(猫)を、使い分けている

一言でいえば——『吾輩は猫である』は、最初の一文から最後の一文まで、尊大な言葉と卑小な現実との落差を貫き通しており、この不一致こそが、『坊っちゃん』『こころ』とは違う、この小説独自の語りの原理である。