前の記事まで、猫たちの言葉づかいを見てきた。この記事では、人間の側——「吾輩」の飼い主である、中学教師・苦沙弥先生をめぐる、二つの言語現象を読む。口癖と、あだ名である。

「この馬鹿野郎」——主人の口癖

苦沙弥先生は、絵を描くことに熱中し、モデルにされた「吾輩」が、我慢できずに欠伸をして動いてしまう場面で、こう怒鳴る。

すると主人は失望と怒りを掻き交ぜたような声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴った。

そして、「吾輩」は、この言葉が、主人の口癖であることを指摘する。

この主人は人を罵るときは必ず馬鹿野郎というのが癖である。ほかに悪口の言いようを知らないのだから仕方がないが……

「必ず」「ほかに悪口の言いようを知らない」——主人の罵倒語彙が、この一語に限られていることを、猫は、やや呆れ気味に観察している。この口癖は、『坊っちゃん』の語り手「おれ」の「篦棒め」と、機能としてはよく似ている。どちらも、感情が高ぶったときに、反射的に出てくる、決まり文句である。ただし、「馬鹿野郎」は、江戸弁に限定されない、より一般的な罵倒語であり、方言的な色彩は薄い。

「後架先生」——便所で謡をうたう男

主人には、もう一つ、興味深い言語現象がまとわりつく。近所でつけられた、あだ名である。

後架の中で謡をうたって、近所で後架先生と渾名をつけられているにも関せず一向平気なもので、やはりこれは平の宗盛にて候を繰返している。みんながそら宗盛だと吹き出すくらいである。

「後架」(こうか)とは、便所のことである。主人が、便所のなかで謡(能の詞章を歌う芸事)を練習する習慣を、近所の人々は目ざとく見つけ、「後架先生」というあだ名をつけた。これは、『坊っちゃん』のあだ名の記事で読んだ、「狸」「赤シャツ」と、まったく同じ命名の仕組みである——内面ではなく、一度目撃された、奇妙な習慣という一点だけから、あだ名が生まれる。

二つの小説をつなぐ、あだ名という技法

漱石は、『吾輩は猫である』でも、『坊っちゃん』でも、同じ命名の技法を使っている。

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』
あだ名後架先生狸、赤シャツ、山嵐など
由来便所で謡をうたう習慣顔つき、服の色、風貌
つけた人近所の人々(作中では直接描かれない)語り手「おれ」自身
機能一度の目撃・観察が、そのまま呼び名になる同じ

違いもある。『坊っちゃん』のあだ名は、語り手「おれ」自身がつけたものとして、明確に語られる。一方、『吾輩は猫である』の「後架先生」は、近所の人々が自然発生的につけたものとして、外側から紹介される。あだ名という技法が、誰の視点から命名行為が描かれるかによって、違う効果を持つことが分かる。

「この馬鹿野郎」——口癖 感情の高ぶりに反射的に出る、決まり文句 『坊っちゃん』の「篦棒め」と同じ機能 「後架先生」——あだ名 奇妙な習慣(便所での謡)の目撃から生まれる 『坊っちゃん』の「狸」「赤シャツ」と同じ命名の仕組み 二つの小説を貫く、漱石の一貫した命名・口癖の技法 図:ToL(両作品の対応する言語現象の比較による)
口癖とあだ名、二つの言語現象。図:ToL

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、「後架先生」というあだ名を、実際に誰が、いつ、どのような経緯でつけたかは、本文では明示されていない。 「近所で」という、やや漠然とした主体が示されているのみである。

第二に、『坊っちゃん』と『吾輩は猫である』は、発表時期が近い(1905年から1906年にかけて)ため、この技法の類似は、漱石がこの時期に特に好んで使った手法だった可能性がある。 ただし、この記事では、漱石の他の作品における、あだ名・口癖の使用状況までは検証していない。

まとめ

論点内容
口癖「馬鹿野郎」——主人が怒ったときに、反射的に出る決まり文句
あだ名「後架先生」——便所で謡をうたう習慣から生まれた呼び名
『坊っちゃん』との共通点内面ではなく、一度の目撃・習慣から、あだ名が生まれる仕組み
相違点あだ名をつける主体(語り手自身か、外部の近所の人々か)が異なる

一言でいえば——『吾輩は猫である』の「馬鹿野郎」という口癖と、「後架先生」というあだ名は、それぞれ、『坊っちゃん』と共通する言語技法でありながら、視点の違いによって、別の効果を生んでいる。