全体像で触れた「猫と大仰な言葉との落差」が、もっとも凝縮された形で現れる場面が、正月の雑煮をめぐる、有名な一節である。
食べるべきか、迷う猫
台所に、正月の雑煮の餅が残されている。「吾輩」は、それを食べるべきかどうか、迷う。
食おうかな、やめようかな、とあたりを見廻す。幸か不幸か誰もいない。
ここまでは、ごく普通の、猫の逡巡である。だが、次の瞬間、猫は、この些細な状況を、哲学的な命題として言語化する。
吾輩はこの刹那に猫ながら一の真理を感得した。「得難き機会はすべての動物をして、好まざる事をも敢てせしむ」
「一の真理を感得した」——まるで、大哲学者が、長年の思索の末に、真理を発見した瞬間であるかのような、荘重な言い回しである。だが、実際に語られている内容は、「誰も見ていないから、食べてもいいかな」という、ただそれだけのことに過ぎない。
歯にくっついて、また「真理」
猫は、思い切って餅にかぶりつくが、今度は、歯にくっついて動けなくなってしまう。
吾輩は椀の中を覗き込みながら、早く誰か来てくれればいいと念じた。……最後にからだ全体の重量を椀の底へ落すようにして、あぐりと餅の角を一寸ばかり食い込んだ。……もうよかろうと思って歯を引こうとすると引けない。
この、物理的で滑稽な苦闘のさなかに、猫は、またもや「真理」を発見する。
この煩悶の際吾輩は覚えず第二の真理に逢着した。「すべての動物は直覚的に事物の適不適を予知す」
「第二の真理に逢着した」——一つ目の「真理」に続いて、二つ目である。だが、これも、「餅は自分に向いていない食べ物だった、と直感的に分かった」という、ただの後悔に過ぎない。猫自身、この滑稽さに気づいてはいるようで、こう付け加える。
真理はすでに二つまで発明したが、餅がくっ付いているので毫も愉快を感じない。
「発明した」という、大発見を意味する言葉を使いながら、実際には、歯に餅がくっついて、苦しくてたまらない——この,言葉の格式と、身体的苦痛の落差が、この場面の笑いの核心である。
なぜ、この仕掛けが効くのか
この「餅と真理」の場面は、第2記事で見た「吾輩」の尊大な語り口の、いわば集大成である。日常の些事——食べるか迷う、歯にくっつく——を、哲学用語(真理、感得、逢着、発明)で飾り立てることで、二重の効果が生まれる。
一つは、単純な言葉の格式のギャップによる笑い。もう一つは、猫という、本来は言語を持たないはずの存在が、人間の学術的な言葉を、的外れに流用しているという、メタ的な滑稽さである。猫が「真理」というとき、それは、人間の哲学者が使う「真理」とは、明らかに違う、軽い意味しか持っていない。この語のずれそのものが、笑いを生んでいる。
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、「真理」という言葉を、猫がどこまで自覚的に、皮肉として使っているのかは、本文からは判然としない。 猫が本気で自分を哲学者になぞらえているのか、それとも、語り手(漱石)が、猫を通して、人間の大仰な学術的言辞そのものを揶揄しているのか——両様の読み方が可能である。
第二に、この場面で使われる「真理」「感得」「逢着」といった語彙は、西洋哲学を日本語に移し替える過程で作られ、当時の日本の知識人が、実際に好んで使っていた言葉である。 この小説自体が、明治期のこうした学術語の氾濫を、意識的にパロディの材料にしている可能性がある。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 第一の「真理」 | 餅を食べるかどうかの逡巡を、哲学的発見として語る |
| 第二の「真理」 | 歯に餅がくっついた苦闘を、同じく「真理」として語る |
| 笑いの仕組み | 言葉の格式(真理、感得、逢着)と、現実の卑小さとの落差 |
| メタ的な効果 | 猫が、人間の学術的な言葉を、的外れに流用していること自体の滑稽さ |
一言でいえば——「餅と真理」の場面は、瑣末な出来事を大仰な言葉で語るという、この小説の中心的な笑いの装置が、もっとも凝縮された形で現れた一節である。