言語は、二つのモデルのどちらか(1-5)

言語コミュニケーションは、コードモデルに従うのか。よくある直観は、そうだ、というものである。言語の信号(語)と意味には、確かな連合があるからだ。たとえば、“cat” は、ネコと結びついている(p.33)。

けれど、著者は、それだけでは足りない、と言う。言語は、隠喩や暗示引用に満ち、字義を大きく超える意味を表す。イントネーションやボディーランゲージも、意味の手がかりになる。「また後で」のような簡単な発話でさえ、親しみ、脅し、面会の依頼、予告など、多くの意図のどれにもなりうる。どれが話し手の意図かを、聞き手は、会話の相手の心の状態を推論して、突き止める(p.33)。

だから、言語コミュニケーションには、コードと、意図明示・推論の両方が、関わる。その関係の捉え方が、二つある(p.34)。

標準的な見方は、言語学の主流にも見られる。統語論や意味論が中心的で、語用論は周辺に置かれる(p.34)。計算モデルや数理モデルの研究も、多くは、信号と意味を結ぶコードを、前提にしている(pp.35–37)。

コードは「非力」である

著者は、この前提が「間違っている」と言い、決定不十分性の議論に戻る(p.38)。

だから、言語コードだけでは、コミュニケーションは成り立たない。著者は、次の会話を例に挙げる(p.40)。

メアリー:夕食、一緒にどうですか。 ピーター:さっき食べました。

この応答は、字義としては、「さっき食べた」ことしか言っていない。「夕食を断る」という意味は、文脈と共有知識(人は、一晩に二度は食事をしない)を、追加して、初めて出る。人型ロボットのハイミーが、字義しか処理できなければ、この会話は、成り立たない。コードとして見れば、言語は非力なのである。

それでも、言語は強力である

一方で、意図明示・推論のコミュニケーションに、言語コードが上乗せされると、表現力は、大きく向上する(p.41)。コーヒーを傾けながら「もっとコーヒーをください」と言える。「おいしい!」と言える。言語は、意図明示コミュニケーションを、正確で、豊かにする。

そして、ここで、著者は、面白い逆転を言う。曖昧性(一つの表現が、複数の意味に解釈されること)は、欠点ではなく、大きな利点である。一つの語で、多くの意味を、効率よく表せるからだ(p.41)。これは、記事281で見た、曖昧性の議論につながる。

コードモデルのコードと、言語のコードの違いを、著者は整理する(p.42)。

コードモデルのコード言語コード
意味の数有限で、おおむね固定曖昧性があり、解消不能
指示できる対象限られる制限がない
単独で成立するか成立する意図明示・推論の土台がいる

つまり、二つは、存在論的にも異なる(p.42)。著者は、これを混同すると誤解を招くと言い、二つに別の呼び名を与える。

自然コードと慣習コード

著者は、次の二語を使い分ける(p.44)。

ヒト以外の種のコードが、自然か慣習かは、経験的な問題である。この区別の大事な点は、二つの起源が異なるという事実だ。

慣習コードの条件は、共同体の同意である。道路の左側通行を、右側通行に変える例を、著者は挙げる。国民全員が、そうしたいと思えば、原理的には変えられる(実際に、一九六七年にスウェーデンで、一九六八年にアイスランドで、変更された。p.45)。語と意味の対応も、同じである。dog が、イヌを指すのは、我々がそう同意しているからで、語と意味の間に、もともと連合があるからではない。

言語とは何か(p.45–48)

著者は、「言語とは何か」への自分の答えを述べる。個別言語は、一つの共同体内の、意図明示・推論コミュニケーションを増強する、慣習コードが多数集まってできた構造体である(p.46)。言語は、意図明示・推論コミュニケーションの一種だが、これに、言語的な慣習が乗る。

具体例として、アマゾンの狩猟採集民が話すピダハン語をめぐる論争を、簡単に取り上げる。ピダハン語には再帰がない、という主張がある(p.46)。著者は、これが決着しても、言語の定義には、影響しない、と言う。どの特性が欠けても、その言語が、言語でなくなるわけではない。言語は、慣習コードの集合体だからである(p.47)。

自然コードと慣習コードは、組み合わさる

自然コードと、意図明示は、組み合わさりうる。例が、笑いである。不随意の笑い(デュシェンヌ型)は自然コードだが、意図的に、笑って見せることもできる。友人の冗談を、皮肉って、わざとらしく笑うのは、後者である(p.47)。

これは、進化を考えるうえで、重要である(p.48)。自然コードと慣習コードは、決定的に異なる。前者は、笑う、うめく、といった行動の意図明示的な使用で、後者には、言語が生じる。だから、言語の起源を、動物の自然コードの進化から、直接に導こうとするのは、カテゴリー錯誤だ、と著者は言う。

意味の二つの意味(1-6)

最後に、「意味」という語が、二つの用いられ方をする、と著者は指摘する(p.49)。

(一)語用論の意味(グライス)。グライスは、自然的意味と非自然的意味を区別した(p.50)。

グライスの分析では、非自然的な意味は、三段階で成立する(pp.50–52)。

  1. 話し手が、相手の心的表示を、操作しようとする。
  2. 話し手が、その意図を、相手が認識することを、意図する。
  3. 相手が、その意図を認識することが、相手の信念の理由の、少なくとも一部になる。

例が、ワインである。私が、友人に、ワインを注いでほしくて、空のグラスを動かす。友人が、それを、意図として認識し、しかも、私がそれを認識してほしい、と意図していることも、認識する。これが、意味の成立である。そして、著者は、これが意図明示・推論コミュニケーションの別名だ、と述べる(p.52)。

ここから、著者は、動物のコミュニケーション研究が、この語を、不用意に使ってきた、と批判する(p.53)。日常会話のように、動物が、ヒトと同じ意図を持っているかのように、「意味」を扱うからである。

(二)進化生物学の意味。ここで、究極的説明と至近的説明の区別が出てくる(p.54)。

問い例:乳児が泣く
究極的説明その行動は、なぜ存在するか(機能)保護者から、世話や保護を引き出すため
至近的説明その行動は、どんな仕組みで起こるか寒さや空腹が引き金になり、内因性オピオイドなどが、泣き止むことに関わる

著者は、この二つが、種類の違う、相補的な説明で、どちらかが、より重要ではない、と言う(p.55)。

そして、動物のコミュニケーションの「意味」は、信号産出行動の究極レベルの説明、つまり、その信号の機能であり、グライス流の意味は、至近レベルの説明(メタ心理学の仕組み)だ、と整理する。たとえば、求愛声の機能が、「交尾しよう」という、命令に書き換えられても、サルが、そう意図していることにはならない(p.56)。混同すると、ヒトの言語との比較研究が、誤解を生む。

読むうえで

引用の会話は、本書の例(ピーターとメアリー)を、ToLが言い換えたものである。ピダハン語の再帰をめぐる論争や、道路の左右変更の年など、細部は、本書の記述に従う。第1章末尾の要約は、読んでいない。