この特集の全体像の記事と第二章の全体像の記事で、第三章が、第二章の「男文字と女文字」の議論を、鷗外と鏡花という、実在の作家の名前で描き直していることを見た。この記事では、三島が、その接続を、どう自分の言葉で語っているかを、原文で確かめる。(ページ数は、全体像の記事で述べた版による。)

三島自身による、種明かし

「二種類のお手本」の節の終わりで、三島は、自分がなぜ、鷗外と鏡花を、この章の冒頭に置いたのかを、はっきり説明する。

私がこの二つを冒頭に引用したのは、序説の男文字と女文字の伝統、論理的世界と情念の世界との対立が、同じ近代文学と言われるもののなかに、いかにも尖鋭な形で相対しているところを示したかったからであります。

「序説」とは、第二章「男文字と女文字」を指す。三島は、続けてこう言う。

他の作家の文体はいずれもこの二つの極の間に、それぞれ星座のように位しているのであって、その間には様々な折衷主義もあれば、また変種もあります。

つまり、鷗外と鏡花は、日本の近代文学の全体を代表するのではなく、その両極を示す、基準点として選ばれている。他のすべての作家は、この二つの極のあいだの、どこかに位置する、というのが、三島の見取り図である。

「長篇小説の文章」での、再利用

この構図は、節をまたいで、「長篇小説の文章」で、もう一度、姿を現す。

日本ではヨーロッパ的なロマーンはなかなか生れませんでした。これは序論で言ったように、日本文学の男文字と女文字の区別からもきていることは、ロマーンこそは男性の論理的世界と女性の情念の世界との一大綜合であり、男性的理念と女性的情念との完全なジュンテーゼでなければならないからです。

ここで、三島は、「男文字と女文字」の区別(第二章)を、説明の道具として、そのまま流用している。「この章の冒頭で引用したように」という言葉も、その直後に続き、「二種類のお手本」(鷗外と鏡花)が、ここでも、根拠として呼び戻されている。

論法を、分解する

三島の論法を、順を追って並べると、こうなる。

  1. 第二章:平安朝以来、日本語の文章は、男文字(論理・理知)と女文字(感情・情念)に分かれてきた。
  2. 第三章・二種類のお手本:この分裂は、近代文学のなかでも生きている。鷗外(論理・簡潔)と、鏡花(情念・絢爛)が、その両極である。
  3. 第三章・長篇小説の文章:ロマーンは、この両極の「完全な綜合」でなければならない。日本の作家は、どちらかに偏ってきたので、真のロマーンは、まだ現れていない。
① 第二章 男文字(論理・理知)と女文字(感情・情念)の区別 平安朝以来の、日本語の文章の分裂 ② 二種類のお手本 鷗外(論理・簡潔)と鏡花(情念・絢爛)——両極の実例 「他の作家は、この二つの極のあいだの星座」 ③ 長篇小説の文章 ロマーンは、両極の「完全な綜合」でなければならない 「これは序論で言ったように……」——①②を根拠として呼び戻す
三島の論法の三段階。図:ToL

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、この論法は、一つの前提(男文字と女文字の区別)を、複数の章にわたって使い回す、一貫した構成である。 これは、三島の文章読本が、単発のエッセイの寄せ集めではなく、通して読むことで、初めて見える構造をもっていることを示している。

第二に、この一貫性は、議論の強さを保証しない。 第二章の判定記事で確かめたとおり、前提そのもの(論理は男性、情念は女性という一般化)は、三島個人の見方であり、実証された主張ではない。前提が弱ければ、そこから導かれる、「日本にロマーンがない」という結論も、同じ弱さを引き継ぐことになる。

第三に、三島は、鷗外・鏡花を「両極」と呼びながら、他の作家を「星座」と表現している。 これは比喩であり、実際に、日本近代文学のすべての作家が、この一直線上に位置づけられる、ということを、実証的に示したものではない。

まとめ

論点内容
三島自身の説明鷗外と鏡花を冒頭に引用したのは、男文字と女文字の対立を示すため
再利用の箇所「長篇小説の文章」で、同じ区別が、ロマーン不在の説明として使われる
論法の三段階①男文字と女文字の区別 → ②鷗外と鏡花という両極の実例 → ③ロマーンは両極の綜合という主張
注意点一貫した構成ではあるが、前提の弱さは、結論にも引き継がれる

一言でいえば——三島は、第二章の「男文字と女文字」を、第三章の議論のなかで、繰り返し呼び戻し、鷗外と鏡花という両極から、「日本にロマーンがない」という結論まで、一つの筋を通した。