第三章の最後の節「長篇小説の文章」は、約3,900字と短いが、第二章の議論を、長篇小説論として、正面から展開する節である。(ページ数は、全体像の記事で述べた版による。)

なぜ、日本にロマーンが生まれなかったか

節は、はっきりした主張から始まる。

日本ではヨーロッパ的なロマーンはなかなか生れませんでした。これは序論で言ったように、日本文学の男文字と女文字の区別からもきていることは、ロマーンこそは男性の論理的世界と女性の情念の世界との一大綜合であり、男性的理念と女性的情念との完全なジュンテーゼでなければならないからです。

前の節で見たように、日本の作家は、鷗外か鏡花か、いずれかの極に偏って小説を書いてきた。だから、真のロマーンを形成できる作家は、なかなか現れない、と三島は言う。ほんとうのところ、西洋的な意味でのロマーンは、まだ日本に現れていないと言ってもよい、とまで述べる。

ただし、三島は、すぐに留保をつける。文学は、ジャンルにこだわる必要はない。ロマーンという考えを別にすれば、『源氏物語』は、立派な長篇小説である、と言う。(『源氏物語』は、パブリックドメインの原典であり、この記事でも、そのように扱う。)

長さだけでは、長篇にならない

長さという点だけなら、新聞小説をはじめ、現在も大長篇は次々と書かれている。週刊誌に一年も連載すれば、おそるべき量の小説が、ほとんど自動的に書き上がってしまう。だが、それは、長篇小説の文章とは違う、と三島は言う。長篇には、感情と思想が、延々と読者の胸のうちに流れ込むだけの、持続力がなければならない。あまりにも鋭敏な感覚、あまりにも詩的な洗練、あまりにも細部にこだわりすぎた文体は、長篇小説には適さない、というのである。

三島は、長篇小説の文章の引用を見せることは、容易ではない、と述べる。その特質は、数行の引用では現れず、百ページ、二百ページと読むうちに、おのずから納得できるものだからだ、と言う。そこで、三島は、引用をやめ、読者自身が実際にあたってみることを勧める。

ゲーテ、バルザック、ドストエフスキー——鷹揚な文体

三島は、西洋の作家で、もっとも長篇小説的な文体をもつのは、ゲーテ、バルザック、ドストエフスキーだと言う。プルーストやスタンダールも長いものを書いたが、プルーストは、長篇作家というより、自分自身の個性と運命を文学に注ぎ込むことに全力を傾けた、特異な作家だ、と三島は位置づける。

長篇小説の理想的な文体を、三島は、こう言い表す。

長篇小説の理想的文体というのは、筋に拘泥しない文体であります。ものにとらわれない文体であります。鷹揚な文体であります。

ゲーテの文体は、一見退屈な流れをもちながら、大波のようにうねって、ゆっくりと思想を展開する。読者は、はじめ退屈しながら小説に入っていくが、次第に視界が開け、遠い森や村落、陽のあたった湖や牧場が、眼の前に現れる、と三島は言う。短篇作家のように、道端の小さな野の花に目をとめることなく、悠々と山道を登り、大きな展望の見晴らせるところまで、読者を連れて行くのだ、というのである。(ゲーテ『親和力』からの、三島が引く具体的な訳文は、翻訳者の権利にも配慮し、この記事では引用しない。)

バルザックについては、『ランジェ公爵夫人』を例に、悠々たる修道院の描写から始まり、なかなか物語の核心に運ばれない、という構成の特徴を挙げる。それでも、彼の文体の波に乗せられると、ベートーヴェンの音楽のような、大きな威圧的なエネルギーを感じさせられる、と三島は評する。ドストエフスキーについては、『カラマーゾフの兄弟』の、いかにもロシア的な、エネルギッシュで、ある意味では鈍重な、神経の太い文体が、あの神経質な主題を支えている、と述べる。

そして、三島は、日本人がもっとも持ちにくいのは、こうした肉体的エネルギーの持続と、ある種の鷹揚な鈍感さだ、と結ぶ。

ロマーンの条件 男性の論理的世界と、女性の情念の世界の、完全な綜合 日本の作家は、いずれかに偏ってきた。西洋的な意味でのロマーンは、まだ日本にはない ただし『源氏物語』は別 ジャンルにこだわらなければ、立派な長篇小説 鷹揚な文体の三人 ゲーテ、バルザック、ドストエフスキー 「筋に拘泥しない、ものにとらわれない、鷹揚な文体」 図:ToL(第三章「長篇小説の文章」の説明による)
ロマーンの条件と、鷹揚な文体。図:ToL

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、「西洋的な意味でのロマーンは、まだ日本にはあらわれていない」という主張は、1959年の、一人の作家の判断である。 その後の日本の長篇小説について、この記事では確かめていない。

第二に、この節の議論の土台——男性の論理的世界と女性の情念の世界という分割——は、第二章の「男文字と女文字」の議論を、そのまま前提にしている。 その前提の妥当性については、第二章の判定記事で検討したとおりであり、三島個人のエッセイとしての見方にとどまる部分がある。

第三に、ゲーテ『親和力』からの三島の引用(高橋健二訳)は、翻訳者の権利にも配慮し、この記事では引用していない。 議論の骨子は、三島自身の地の文から、要約として紹介した。

まとめ

論点内容
ロマーンの条件男性の論理的世界と、女性の情念の世界の、完全な綜合
日本の現状西洋的な意味でのロマーンは、まだ現れていない(三島の判断)
例外ジャンルにこだわらなければ、『源氏物語』は立派な長篇小説
理想の文体筋に拘泥しない、ものにとらわれない、鷹揚な文体
代表的な作家ゲーテ、バルザック、ドストエフスキー

一言でいえば——三島は、日本に真のロマーンが生まれなかった理由を、男文字と女文字の分裂に求め、ゲーテやバルザックの「鷹揚な文体」に、その綜合の手本を見た。