前の記事で、三島由紀夫が、森鷗外『寒山拾得』と、泉鏡花『日本橋』を、「アポロン的」「ディオニュソス的」と対比したことを見た。この記事では、三島の分析を離れ、二つの原文そのものに戻って、その対比が、文章のどこに現れているかを確かめる。(両者とも、パブリックドメインの原典として扱う。)
鷗外——主語のない文
三島が引く『寒山拾得』の一節を、もう一度見る。
閭は小女を呼んで、汲立の水を鉢に入れて来いと命じた。水が来た。僧はそれを受け取って、胸に捧げて、ぢつと閭を見詰めた。清浄な水でも好ければ、不潔な水でも好い、湯でも茶でも好いのである。不潔な水でなかったのは、閭がためには勿怪の幸であった。
この短い引用のなかで、数えてみると、文は、次のように切れている。
- 閭は小女を呼んで、汲立の水を鉢に入れて来いと命じた。
- 水が来た。
- 僧はそれを受け取って、胸に捧げて、ぢつと閭を見詰めた。
- 清浄な水でも好ければ、不潔な水でも好い、湯でも茶でも好いのである。
- 不潔な水でなかったのは、閭がためには勿怪の幸であった。
文2「水が来た。」は、五文字である。主語は書かれていない。誰が水を運んだのか、どんな様子で運んだのかも、書かれていない。文1の「命じた」と、文3の「受け取って」のあいだに、水が汲まれ、運ばれてくる、という時間の経過が、まるごと省略されている。三島が「よけいなものをぜんぶ剝ぎ取り」と評したのは、この省略のことである。
鏡花——名詞の連なり
対して、泉鏡花『日本橋』の冒頭は、こう始まる。
腕白ものの十ウ九ッ、十一二なのを頭に七八人。春の日永に生欠伸で鼻の下を伸して居る、四辻の飴屋の前に、押競饅頭で集った。手に手に紅だの、萌黄だの、紫だの、彩った螺貝の独楽。
ここでは、文の切れ目そのものが、曖昧である。「腕白ものの十ウ九ッ、十一二なのを頭に七八人。」という文には、述語がない。「手に手に紅だの、萌黄だの、紫だの、彩った螺貝の独楽。」という文にも、述語がない。名詞と、色の名前(紅、萌黄、紫)が、次々と並べられ、読点でつながれていく。
鷗外の文が、出来事を、時間の順序に沿って、切り詰めて並べるのに対し、鏡花の文は、一つの場面のなかにある、たくさんの事物(子供の数、飴屋、独楽の色)を、空間的に並べる。三島が「色彩の氾濫」と呼んだのは、この、名詞と色彩語の連なりのことである。
二つの文章を、並べて見る
三島の分析は、どこまで確かめられるか
三島の評——鷗外は簡潔で明晰、鏡花は絢爛で色彩豊か——は、この短い引用の範囲では、文章の構造そのものから、確かに読み取れる。鷗外の文は、出来事の「筋」だけを、最小限の文で伝える。鏡花の文は、一つの場面の「もの」を、次々と積み上げる。この違いは、三島の比喩(アポロン的、ディオニュソス的)を使わなくても、文の作り自体から、確認できることである。
一方、三島が言う、「ハーバート・リードの言う『全体性の知覚』」に、鷗外と鏡花が、それぞれ別の道で達している、という評価は、文章の構造から直接に読み取れるものではない。これは、三島自身の、文学的な評価であり、読者が、この短い引用だけから、同じ結論に達するとは限らない。
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、この記事で見た「文の切れ目」の分析は、ToLによる、原文そのものの読み方である。 三島自身が、この記事のような形で、文を分解して見せているわけではない。
第二に、どちらの文章がすぐれているか、という価値判断は、この記事では行っていない。 鷗外の省略と、鏡花の積み重ねは、どちらも、一つの技法であり、その巧拙は、より長い文脈のなかで、初めて評価できるものである。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 鷗外の構造 | 出来事を時間順に並べ、経過を大胆に省略する(「水が来た。」) |
| 鏡花の構造 | 事物と色彩語を、述語なしに、読点でつなげて並べる |
| 確かめられること | 簡潔と絢爛の対比は、文の構造そのものから読み取れる |
| 確かめられないこと | 「全体性の知覚」という評価は、三島の文学的判断であり、構造分析を超える |
一言でいえば——鷗外の「水が来た」は、時間を圧縮した五文字であり、鏡花の冒頭は、空間を埋め尽くす名詞の連なりである。三島の対比は、この文の作りの違いに、確かに根ざしている。