『文章読本』の第二章「文章のさまざま」は、この本でいちばん長い章である。本文はおよそ2.2万字、全体の約2割を占める(全体像の記事)。三島由紀夫は、ここで、日本語の文章の性格を、四つの窓から見る。この特集の第2〜4特集にあたる、この記事から始まる7本では、その四つの窓を、順に読んでいく。
四つの節
| 節 | ページ | 中身 |
|---|---|---|
| 男文字と女文字 | p.14–21 | 漢字とかな、論理と情念という、性による言葉の分担 |
| 散文と韻文 | p.22–31 | 西洋と日本の、韻文・散文の歴史。万葉集の頭韻、七五調の伝統 |
| 文章美学の史的変遷 | p.32–41 | 二葉亭四迷以後の断絶。翻訳調の歴史 |
| 文章を味わう習慣 | p.42–48 | 現代人の読み方の変化。「歩く」文章と「味わう」文章 |
四つの節を、一言で
男文字と女文字——平安朝、漢字は男文字、かなは女文字と呼ばれた。論理と理知は男性が、感情と情念は女性が担った。そして、三島は、日本の男性的な文化——論理、理知、抽象概念——のほとんどが、外来のものだったと言う(第2記事)。
散文と韻文——西洋の文学史は韻文から始まったが、日本語には頭韻も脚韻もない。それでも『万葉集』は、枕詞で頭韻に似た効果を出した。三十一文字の五・七・五・七・七は、「日本語の黄金分割」として、七五調の伝統を、戦記物から浄瑠璃、そして現代のキャッチ・フレーズにまで伝えている(第3記事)。
文章美学の史的変遷——二葉亭四迷以後、文章は革命的な変化を経た。それまでの文学は、樋口一葉も尾崎紅葉も、古典文学になった。同時に、翻訳の文体が、日本語そのものに入り込んでいった(第4記事)。
文章を味わう習慣——歌舞伎の「どりや書見をいたそうか」から、週刊誌が読み捨てられる時代へ。三島は、現代人が、自動車でドライブするように小説を読み、景色を一つ一つ眺めるようには読まなくなった、と言う(第5記事)。
この章の、一本の糸
四つの節は、別々の話題に見えるが、一本の糸でつながっている。それは、日本語の抽象概念は、もともと日本語の内側から生まれたものではなく、外から来たものだ、という三島の見方である。
この見方は、「男文字と女文字」で、論理と理知は外来の思想に委ねられた、という形で語られる。「文章を味わう習慣」の終わりでは、伊藤整が漢語を片カナで書く手法を創始したことを、抽象概念の尊大さを剝奪する、滑稽な効果として紹介する(この点は、第6記事の精読で、詳しく確かめる)。
この章と、第一特集との関係
第一特集(全体像)で読んだ第五章は、日本語の「論理性の稀薄さ」を、評論の文章の困難として語っていた。第二章の「男文字と女文字」の議論は、その見方の、もう一つの根っこにあたる。三島にとって、日本語が論理に弱いという見方は、複数の章にまたがる、一貫した主題である。
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、この章の主張の多くは、三島個人のエッセイとしての見方であり、実証された言語学の説ではない。 「日本語には固有の抽象概念がなかった」という主張は、この特集の精読と判定の記事で、慎重に検討する。
第二に、引用される古典(万葉集、平家物語、源氏物語、好色一代男など)は、いずれもパブリックドメインの作品である。 これらは、三島の著作権とは別に、原文として確かめられる。この特集では、可能な範囲で、原文の趣旨を確かめている。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 分量 | 約2.2万字。本書でいちばん長い章 |
| 四つの節 | 男文字と女文字/散文と韻文/文章美学の史的変遷/文章を味わう習慣 |
| 一本の糸 | 抽象概念は、日本語の内側からではなく、外から来た、という見方 |
| 前章との関係 | 第五章の「日本語の論理性の稀薄さ」と、同じ主題の別の現れ |
一言でいえば——第二章は、日本語の文章を、性、韻律、歴史、読み方という四つの窓から見せながら、「抽象概念は外来のものだ」という一本の糸で、全体をつないでいる。