この特集は、全体像の記事から始まり、「男文字と女文字」「散文と韻文」「文章美学の史的変遷」「文章を味わう習慣」の四つの節と、精読の記事を読んできた。ここで、読んだ範囲を、まとめて振り返る。
確かめやすい観察
四つの節のうち、具体例を伴い、読者自身が確かめやすい観察は、次のものである。
- 七・五調の現代への生き残り(散文と韻文)。「注意一秒 怪我一生」「有楽町で逢いましょう」のような、身近な標語で、実際に確かめられる。
- 『万葉集』の枕詞による、頭韻に似た効果(散文と韻文)。持統天皇と志斐嫗のやりとりの歌など、具体的な原文が示されている。
- 二葉亭四迷以後の文体の断絶(文章美学の史的変遷)。樋口一葉や尾崎紅葉の文章が、現代の読者に耳遠くなった、という指摘は、実際に古典を読んで確かめられる。
- 翻訳文体が現代日本語に入り込んでいること(文章美学の史的変遷)。森鷗外の訳業や、横光利一の文体は、具体的な引用とともに示されている。
三島個人のエッセイにとどまる主張
一方、実証された言語学の主張というより、三島個人の見立てとして読むべきものは、次のものである。
- 「日本語には固有の抽象概念がなく、明晰性を持てない」という主張(男文字と女文字、および文章を味わう習慣の手前)。精読の記事で確かめたとおり、日本語の抽象語彙の多くが漢語・翻訳語であることは事実だが、そこから「明晰性を持てない」と結論づける部分は、三島のエッセイとしての評価である。
- 「論理と理知は男性、感情と情念は女性」という、性による分担の一般化(男文字と女文字)。平安朝の文字の使い分け(男文字・女文字という呼び名)自体は、歴史的に確認できる。しかし、そこから、論理・理知と感情・情念を、そのまま男女の本質に結びつける部分は、1959年の、一人の作家の見方である。
- 「散文と韻文を、それほど区別する必要はない」という、三島自身の結論(散文と韻文)。これは、三島が自分の考えとして明言している部分であり、学術的な主張として提示されたものではない。
この章と、第一特集との一貫性
第一特集(全体像)の第五章で読んだ、「日本語には論理性が稀薄である」という見方は、この章の「男文字と女文字」の議論と、同じ土台に立っている。三島にとって、これは、単発の思いつきではなく、複数の章にまたがる、一貫した見方だった。この一貫性は、三島の文章観の特徴として、確かめる価値がある。一方で、一貫しているからといって、その見方が正しいことにはならない、という点も、あわせて確認しておきたい。
この特集の限界
一、原本のスキャンの精度により、一部の節(特に「文章を味わう習慣」)は、正確な逐語的引用が難しかった。 この記事群では、確実に読み取れた一文だけを引用とし、それ以外は要約として扱った。読み取れなかった部分に、三島の重要な論点が含まれている可能性は、否定できない。
二、パブリックドメインの古典からの引用(万葉集、源氏物語、平家物語、好色一代男など)は、三島の解釈を経由したものであり、国文学の専門的な注釈とは、照らし合わせていない。 これらの古典の、標準的な解釈との異同は、この特集では確認していない。
三、「精読」の記事で示した、二つの箇所をつなぐ読み方は、ToLによる整理である。 三島自身が、この二箇所を、明示的に一つの議論として結びつけているわけではない。
まとめ
| 論点 | 判定 |
|---|---|
| 七五調の生き残り | 確かめやすい。現代の標語で実際に確認できる |
| 万葉集の枕詞 | 確かめやすい。具体的な原文とともに示されている |
| 二葉亭四迷以後の断絶 | 確かめやすい。古典の読みにくさとして、実際に確認できる |
| 翻訳文体の浸透 | 確かめやすい。森鷗外・横光利一の実例が示されている |
| 抽象概念は外来のもの | 語源の観察は妥当。「明晰性を持てない」という結論はエッセイの域 |
| 男文字と女文字の一般化 | 歴史的な呼び名は確認できるが、本質論への一般化は三島の見方 |
一言でいえば——第二章は、具体例で確かめられる、言葉の歴史の観察と、三島個人の日本語論としてのエッセイが、分かちがたく織り込まれた章だった。両方を、分けて読む必要がある。