第三章は、料理や酒の味を知るには、最上のものを味わうべきだ、という比喩から始まる。三島は、そこで、「非常に対蹠的な二つの文章」を示す、と宣言する。一つは森鷗外『寒山拾得』の一節、もう一つは泉鏡花『日本橋』の一節である。(ページ数は、全体像の記事で述べた版による。両者の原文は、パブリックドメインとして扱う。)
鷗外——「水が来た」
三島が引く『寒山拾得』の一節は、地方長官の閭(りょ)が、頭痛を治すという僧侶のために、小女に水を汲んでこさせる場面である。
閭は小女を呼んで、汲立の水を鉢に入れて来いと命じた。水が来た。僧はそれを受け取って、胸に捧げて、ぢつと閭を見詰めた。(森鷗外『寒山拾得』)
三島は、この一節のなかで、「水が来た」という、たった一句に感嘆する。
この「水が来た」という一句は、全く漢文と同じ手法で、「水来」というような表現と同じことである。(p.52、要旨を含む)
小女が水を汲みに行き、戻ってくるまでの過程を、鷗外は、いっさい描写しない。三島は、これを、一般の時代物作家なら、小女の足音や、帯の色、水面の揺れまで書き込むだろう、と言い、自分で「悪文のお手本」を作って見せる。それに対して、鷗外の文章は、「現実を残酷なほど冷静に裁断して、よけいなものをぜんぶ剝ぎ取」ったものだ、と三島は評する。
「一に明晰、二に明晰、三に明晰」
三島は、鷗外が、文章の秘伝を聞かれて、こう答えたという逸話を紹介する。
一に明晰、二に明晰、三に明晰(p.53付近、伝聞として)
鷗外の文章は、「非常におしゃれな人が、非常に贅沢な着物をいかにも無造作に着こなして、そのおしゃれを人に見せない」ような文章だ、と三島は言う。無造作に見えて、実は上等な生地でできている——それが、鷗外の簡潔さの正体である。
三島は、ここで、イギリスの批評家ハーバート・リードの言葉(ホーソーンの文体についての評)を引いて、鷗外の文体の秘密を、「情況の全体性や完全性の知覚を意味する何か」だと説明する。明晰な文体は、無味乾燥に見えながら、実は、そこに詩の元素が、圧縮された形で存在する、というのである。
鏡花——色彩の氾濫
対する泉鏡花の『日本橋』は、こう始まる。
腕白ものの十ウ九ッ、十一二なのを頭に七八人。春の日永に生欠伸で鼻の下を伸して居る、四辻の飴屋の前に、押競饅頭で集った。手に手に紅だの、萌黄だの、紫だの、彩った螺貝の独楽。(泉鏡花『日本橋』)
三島は、鏡花の文章に、鷗外の文章のなかで感嘆した要素は、一つもない、と言う。それどころか、自分が作った「悪文のお手本」との類似点さえ、豊富に認められる、とまで言う。
それでも、鏡花は「高み」に達している
だが、三島は、鏡花を貶めているのではない、とすぐに断る。
これは鷗外の文章とぜんぜん反対の立場にたつ美学にのっとっており、この美学を極端にまで押し進めて、鏡花は先に私が改悪したあの悪文から、はるか離れた高みに達しております。(p.57付近、要旨を含む)
鏡花の文章には、「眼も綾な色彩の氾濫」があり、読者を「一種の快い純粋持続」に誘い込む。三島は、これを、「理性の酩酊」と呼ぶ。鏡花は、自分が美しいと思うものにだけ、感覚と思想を集中し、それによって、ハーバート・リードの言う「全体性の知覚」に、鷗外とはまったく別の道から到達した、というのである。
アポロン的文章と、ディオニュソス的文章
三島は、この対を、こう名づける。
もし鷗外の文章をアポロン的文章と言うとすれば、ディオニュソス的文章と言うことができましょう。(p.58付近、要旨を含む)
伝統的に言えば、鷗外の簡潔さは、漢文の伝統に立ち、鏡花の絢爛さは、日本の国文学、江戸の戯文、俳諧の精神——「日本文学の官能的伝統」に立つ、と三島は述べる。
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、鷗外・鏡花からの引用は、いずれもパブリックドメインの原典として扱っている。 三島の解釈とは別に、それ自体で読むことができる。
第二に、ハーバート・リードの引用は、三島の著書のなかでの孫引きであり、リード自身の原文(英語)とは、この記事では照合していない。 リードの著作権の扱いについても、この記事では確認していない。
第三に、「アポロン的」「ディオニュソス的」という対概念は、三島自身の比喩であり、鷗外・鏡花研究における標準的な用語ではない。 これは、三島が、二人の文章を鮮やかに対比するために選んだ、レトリックとして読むのがよい。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 鷗外の文章 | 「水が来た」。描写を剝ぎ取った、簡潔で明晰な文体 |
| 鷗外の秘伝 | 「一に明晰、二に明晰、三に明晰」 |
| 鏡花の文章 | 色彩の氾濫。読者を「理性の酩酊」に誘い込む |
| 二つの到達点 | どちらも、別の道で「全体性の知覚」に達する |
| 対概念 | 鷗外=アポロン的、鏡花=ディオニュソス的(三島の比喩) |
一言でいえば——三島は、「水が来た」の五文字と、色彩の氾濫する一節を並べ、簡潔と絢爛という、まったく逆の道が、それぞれ文章の高みに達しうることを示した。