『文章読本』③ 小説の文章
「水が来た。」鴎外の簡潔と、泉鏡花の色彩の氾濫。アポロン的文章とディオニュソス的文章。なぜ鴎外は大長篇を書かなかったのか。そして、日本にヨーロッパ的な「ロマーン」がなかなか生まれなかった理由。第三章「小説の文章」を、原文で読む。
「小説の文章」を読む——鷗外と鏡花、短篇と長篇、二つの対蹠
森鷗外の簡潔さと、泉鏡花の絢爛。三島由紀夫は、この二人を「アポロン的」「ディオニュソス的」と呼び、短篇と長篇という、もう一つの対を重ねる。約2.1万字、第三章「小説の文章」の見取り図。
「水が来た」——鷗外の簡潔と、鏡花の絢爛、二種類のお手本
「水が来た」——たった五文字に、鷗外の文章の極意が詰まっている、と三島由紀夫は言う。泉鏡花の『日本橋』は、その対極にある、色彩の氾濫。アポロン的な文章と、ディオニュソス的な文章。第三章の冒頭を読む。
鷗外は、なぜ大長篇を書かなかったのか——日本の短篇小説の、特殊な地位
非常に知的で明晰な人は、大作を書けないのではないか。三島由紀夫は、鷗外の『澀江抽斎』を、簡潔な文体で書かれた「ぎりぎりの長篇」と呼ぶ。そして、日本の短篇小説が、なぜヨーロッパの詩に近い地位を占めてきたかを論じる。
日本に「ロマーン」はまだない——筋に拘泥しない文体を求めて
ロマーンとは、男性の論理的世界と、女性の情念の世界の、完全な綜合でなければならない。三島由紀夫は、日本にヨーロッパ的な長篇小説がなかなか生まれなかった理由を、そこに見る。ゲーテ、バルザック、ドストエフスキーの「鷹揚な文体」を通して、長篇小説の条件を読む。
精読——「水が来た。」——鴎外と鏡花、二つの原文を並べて読む
森鷗外『寒山拾得』と泉鏡花『日本橋』。三島由紀夫が対比した二つの文章を、原文そのものに戻って読み、三島の分析が、どこまで文章そのもので確かめられるかを見る。
精読——男文字と女文字は、なぜ「ロマーン」の議論に戻ってくるのか
「私がこの二つを冒頭に引用したのは……」。三島由紀夫は、第三章の終わりに近く、自分がこの章で何をしたかったのかを、あらためて説明する。第二章の議論が、どう長篇小説論に応用されたのかを、原文で確かめる。
遺産と判定——鴎外と鏡花の対比は今も語り継がれ、「日本にロマーンがない」は問い直された
鴎外の簡潔と鏡花の絢爛という対比は、今も日本近代文学を語る、共通の参照点であり続けている。一方、「日本にヨーロッパ的なロマーンがない」という三島の診断は、その後の文学史の展開によって、大きく相対化された。第三章の三つの節を、分けて採点する。