言語ゲームの話には、当然の反論が来る。「あなたは言語ゲームの例ばかり並べて、言語ゲームの本質——つまり言語の本質——が何かを、一度も言っていない。これらすべてに共通するものは何なのか」(§65 の要約)。この反論に、ウィトゲンシュタインは正面から答える。
1. 「考えるな、見よ」
Denk nicht, sondern schau! (Don’t think, but look! (§66))
考えるな、見よ。(§66。ドイツ語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ)
「ゲーム(Spiel / game)」と呼ばれるものを見よ、とウィトゲンシュタインは言う——盤上ゲーム、カードゲーム、球技、オリンピック競技、子どもの輪あそび。「これら全部に共通するものがあるか、見よ。見れば、全部に共通する何かは見えないだろう。だが、類似が、血縁関係が見えるだろう。しかも一連の類似が」(§66)。チェスとテニスは「勝敗」を分けるが、ソリティアには相手がいない。チェスとソリティアは「技能」だが、すごろくは運。娯楽という点はほとんどに当てはまるが、プロの試合は労働でもある。特徴は「現れては消える(tauchen auf und verschwinden)」。
2. 家族的類似
Ich kann diese Ähnlichkeiten nicht besser charakterisieren als durch das Wort »Familienähnlichkeiten«; denn so übergreifen und kreuzen sich die verschiedenen Ähnlichkeiten, die zwischen den Gliedern einer Familie bestehen: Wuchs, Gesichtszüge, Augenfarbe, Gang, Temperament. (I can think of no better expression to characterise these similarities than “family resemblances”; for the various resemblances between members of a family — build, features, colour of eyes, gait, temperament — overlap and criss-cross in the same way. (§67))
これらの類似を、「家族的類似」という語より的確に言い表すことはできない。一家の成員のあいだにある さまざまな類似——体つき、顔立ち、目の色、歩き方、気質——は、ちょうどこのように重なり合い、交差しているからだ。(§67)
そして「『ゲーム』は一つの家族をなす」。一家の写真を見れば、兄は父の鼻、妹は母の目、弟は祖父の額……と受け継がれているが、「一家全員に共通する顔の造作」はないことが多い。それでも一目で「似た一家」と分かる。ウィトゲンシュタインの糸のたとえ——糸が強いのは、一本の長い繊維が端から端まで通っているからではなく、短い繊維が無数に重なり合っているからだ(§67)。
3. 境界のぼやけた概念
「では『ゲーム』の外延は曖昧だ、それは欠陥ではないか」。ウィトゲンシュタインは認め、そして切り返す。
Man kann sagen, der Begriff »Spiel« ist ein Begriff mit verschwommenen Rändern. (One can say that the concept “game” is a concept with blurred edges. (§71))
「ゲーム」という概念は、縁のぼやけた概念だ、と言える。(§71)
だが、ぼやけた縁は欠陥ではない。「ぼやけた写真が、まさに私たちの必要とするものであることは、しばしばないだろうか」(§71)。「立っている人」を撮った鮮明な写真より、動きをとらえたブレのある一枚のほうが役に立つ場面がある。概念に人工的な境界を引くこともできる。だが「もし誰かが境界を引いても、私はそれを、私がずっと引きたかった境界だとは認めないだろう」(§68)。「ゲーム」は、境界を引かずに使えるし、現に使えている。
4. 例で説明する、ということ
だから「ゲーム」を説明するとき、私たちは例を挙げて「これらや、これに似たものを、ゲームと呼ぶ」と付け加える(§69)。これは「本当の定義が見つからないから仕方なく例で済ませている」のではない。それがこの概念の働き方そのものなのだ。「例を挙げての説明」は不完全な説明ではない、とウィトゲンシュタインは念を押す(§71)。
5. 本質主義への一撃
この一撃の相手は、本質主義——「X とは何か」という問いに、全事例が必ず共有する一つの性質で答えられる、という前提だ。プラトンの対話篇は「知識とは何か」「敬虔とは何か」を、まさにその形で問うた。ウィトゲンシュタインは言う——私たちの概念の多くは、そうではない。「ゲーム」も、「言語」も、「数」(§67 で言及)も、「理解する」も、家族的類似で結ばれている。
この見方は、のちのカテゴリー研究——エレノア・ロッシュのプロトタイプ理論、レイコフの認知言語学——に直接影響した。「鳥」の中心はスズメやハトで、ペンギンやダチョウは周縁、というあの構図は、家族的類似の心理学版である。言語学の側では、ソシュールの「言語には差異しかない」(カテゴリーは本質でなく差異で決まる)、サピアの品詞論(品詞は現実の切れ目でなく言語の切り分け)と、同じ方角を向いている。
6. 「見よ」——後期の方法そのもの
「考えるな、見よ」は、家族的類似だけの標語ではない。後期ウィトゲンシュタインの哲学の方法そのものだ。「私たちは、いかなる理論も立ててはならない。すべての説明を取り除き、その場所に、ただ記述だけを置かねばならない」(Wir dürfen keinerlei Theorie aufstellen … nur Beschreibung an ihre Stelle, §109 / “description alone must take its place”)。
哲学は「すべてをただ差し出すだけで、何も説明せず、何も推論しない」(§126)。そして——「私たちにとって最も重要な事物の相は、その単純さと日常性のために隠されている」(§129)。定義を掘り当てようとするのをやめ、言葉が実際に使われているところを、ただ丁寧に見る。家族的類似は、その方法が生んだ最初の大きな成果だった。
まとめ
| 節 | 要点 |
|---|---|
| §65–66 | 「言語ゲームの本質は?」への答え:「考えるな、見よ」。共通の本質は見えない |
| §66 | 見えるのは、現れては消える「類似、血縁関係」の連なり |
| §67 | それが「家族的類似」。ゲームは一つの家族。糸=重なり合う繊維 |
| §68–71 | 「ゲーム」は縁のぼやけた概念。ぼやけは欠陥でなく、しばしば必要 |
| §69–71 | 例を挙げての説明は、不完全な説明ではない |
| §109, §126, §129 | 理論を立てず、記述する——後期の方法 |