ソシュールの『一般言語学講義』(1916、死後刊)からわずか5年後、大西洋の反対側で、もう一冊の一般言語学の入門書が出た。エドワード・サピア(Edward Sapir, 1884–1939)の『言語——ことばの研究序説』(1921)である。サピアは人類学者フランツ・ボアズの弟子で、北米先住民の言語を数多く記述した人類学者=言語学者。この本は130ページと薄く、発音記号も専門用語もほとんど使わない。序文で本人がねらいをこう書く——「事実を集めるより、言語という主題に一定の見通しを与えること」。
その見通しは、いくつかの強い主張にまとまる。
1. 言語は本能ではない
子どもを生まれてすぐ別の社会へ移せば、歩き方はもとの環境とほぼ同じに育つ。だが、ことばは「native environment のそれとは完全に食い違う(completely at variance)」。だからサピアは言う——「歩行は有機的で本能的な機能であり、発話は非本能的で後天的な、“文化的”機能である」(Walking is an organic, an instinctive, function …; speech is a non-instinctive, acquired, “cultural” function、第1章)。
ここから有名な定義が出る。
Language is a purely human and non-instinctive method of communicating ideas, emotions, and desires by means of a system of voluntarily produced symbols.
言語とは、随意に産出される記号の体系によって、観念・感情・欲求を伝達する、純粋に人間的で非本能的な方法である。(第1章。引用は原文、日本語は L/LAB 訳。以下同じ)
感嘆詞(oh! ah!)や擬声語(cuckoo)は本能的な叫びの文化的な模造にすぎず、言語の起源にはならない。「間投詞は、せいぜい、複雑な織物の装飾的な縁取りにすぎない」。生理の面でも、サピアは踏み込む——「厳密には発音器官などというものは存在しない。発音に付随的に役立つ器官があるだけだ」(There are, properly speaking, no organs of speech)。肺は呼吸、歯は咀嚼のためにできた。言語は既存の器官の上に乗った機能(an overlaid function)だ。
2. 本質は音ではなくパターン
話し言葉は書き言葉へ、手話へ、モールス信号(「記号の記号の記号」)へ、一対一で転移できる。この転移のしやすさそのものが、「音そのものは言語の本質的な事実ではなく、本質は分類・形式的パターン・概念の関係づけにある」ことを示す。サピアの言い方では——「言語は、その内側の面において、思考の鋳型(the mold of thought)である」(第1章)。
言語と思考の関係も、この延長にある。言語は「本来は前理性的な機能」で、思考は「言語の最も潜在的な内容」。両者は同一ではないが不可分で、「道具が産物を可能にし、産物が道具を洗練する」。語は理解への「鍵」であり、同時に「足枷」でもある。
3. 形式と機能は別のもの
第4〜5章で、サピアは形式(どんな方法か)と機能(どんな概念か)は相対的に独立していることを繰り返し示す。英語の複数は -s でも geese でも sheep でも oxen でも表せる。母音交替は複数(goose/geese)にも過去(sing/sang)にも使われる。「パターンは一つのこと、パターンの活用はまったく別のこと」。
同じ相対性は品詞にも及ぶ。「it reddens」が動詞なら「red」も動詞になりうる。「the height of a building」では性質が物のふりをする。「“品詞” は、現実についての我々の直観的分析ではなく、現実をさまざまな形式パターンに構成する我々の能力を反映している」(第5章)。ほぼどの言語にもあるのは名詞と動詞の区別だけ——「話すこととは命題の連なり」だから、「何かについて」と「何かを述べる」の二つは要る。
そして第6章、旧来の「孤立語→膠着語→屈折語」という進化論的な言語分類を退ける。その背後には「ラテン語・ギリシャ語こそ言語発達の頂点」という自民族中心の思い込みがある。サピアの一撃——「ラテン語型の形態を言語発達の最高水位のように語る言語学者は、有機界をサラブレッドやジャージー牛を進化させるための巨大な陰謀と見なす動物学者と同じだ」。「すべての言語は形式言語である」。
4. 言語は自分でドリフトする
第7章「ドリフト」は、この本で最も影響力の大きい章。「言語は、自らが作る流れに乗って時間を下っていく。言語にはドリフトがある」(Language moves down time in a current of its own making. It has a drift.)。ドリフトはランダムな個人差ではなく、「話者による、ある方向へ累積する個人差の無意識的な選択」。言語には「勾配(slope)」があり、これから数世紀の変化は現在の目立たない傾向にすでに予示されている。
サピアの名高い予言——英語話者が “Whom did you see?” にかすかに抵抗するのは、①形式の対称性 ②疑問詞は不変化であるべき ③語順 ④音のリズム、という四つの無意識的な力が一つに集約されるから。だから「あと2世紀もすれば、最も学識ある法律家でさえ “Whom did you see?” とは言わなくなる、と予言しても安全だ」。「Who did you see? と平気で言う無学な民衆のほうが、言語の真のドリフトへの嗅覚は鋭い」。
方言は、集団が分かれて独立にドリフトすることで生まれる。「方言/言語/語派/語族」は、視野の広狭で入れ替わる相対的な用語にすぎない。
5. 言語・人種・文化は別物
第10章。人種・言語・文化の分布は「最も当惑させる仕方で交差する」。「人種は、その唯一理解可能な意味=生物学的な意味において、言語と文化の歴史に対して至高に無関心である」。「スラヴ主義」「アングロサクソン主義」「ラテンの天才」といった標語は「感傷的な信条」。英語は複数の人種に話される——アメリカの黒人にとって英語は「イングランド王のものと同じくらい不可譲に彼らのもの」だ。
言語と文化のあいだにも因果関係はない。「文化とは、社会が行い考えることである。言語とは、思考の一つの《やり方(how)》である」。文化の変化は「選ばれた経験の目録」の変化、言語のドリフトは「形式表現」の変化。だから——「言語の形式に関しては、プラトンはマケドニアの豚飼いと並んで歩き、孔子はアッサムの首狩り人と並んで歩く」。語彙は文化を映すが、それだけ——「言語学徒は、言語をその辞書と同一視する過ちを決して犯してはならない」。
まとめの一句。「すべての言語の潜在的な内容は同じ——経験の直観的な科学。二度と同じでないのは顕在的な形式のほうだ」。だから「言語が人種そのものから流れ出ることは、ソネットの形式が人種から流れ出ないのと同じくらい、ありえない」。
6. 言語は集団の芸術
最終章は文学。文学には二層ある——(1) 一般化された非言語的な芸術(翻訳できる。シェイクスピア、深い象徴)、(2) 特定の言語に固有の芸術(翻訳できない。スウィンバーン)。「文学作品は決して翻訳できない」(クローチェ)——にもかかわらず翻訳されるのは、深層が「あらゆる言語がその翻訳であるような記号的代数」からの翻訳だから。シェイクスピアやハイネは二層を融合する——「ハイネを読むと、宇宙がドイツ語を話しているような錯覚に陥る」。
文体とは絶対的なものではなく「言語自体が、その自然な溝を流れているもの」。韻律も言語の音の力学から生じる——「ラテン語・ギリシャ語の詩は対比する重さ(長短)、英語の詩は対比する強勢、フランス語の詩は数と反響、中国語の詩は数と反響と対比する声調に依る」。
本の結び——「言語は、我々が知る最も massive で包括的な芸術、無意識の世代が作りあげた、山のように大きく作者不明の作品である」。
まとめ
| サピアの主張 | どこで |
|---|---|
| 言語は本能でなく文化。生理的には「上に乗った機能」。本質は音でなくパターン | 第1章 |
| 形式(方法)と機能(概念)は独立。品詞さえ言語相対的 | 第4〜5章 |
| 進化論的な言語分類は自民族中心の思い込み。すべての言語は形式言語 | 第6章 |
| 言語は自律的にドリフトする。変化は方向を持ち、現在に予示される | 第7〜8章 |
| 言語・人種・文化は独立変数。「民族の天才」は迷信 | 第9〜10章 |
| 言語は集団の芸術。文体・韻律はその言語の力学の露頭 | 第11章 |
なぜ今も読まれるか
- 音のパターン(第3章)——「客観的な音の背後にある理念的な体系」という考えは、のちの音素論(プラーグ学派・アメリカ構造主義)に直結する。記号は差異で働くというソシュールの考えとも響き合う。
- 言語相対論——第1章の「思考の鋳型」、第10章の「言語=思考の《やり方》」は、のちのサピア=ウォーフ仮説の源泉。ただし本書のサピアは「潜在的な内容はどの言語も同じ」とも言っており、素朴な言語決定論ではない。
- 言語類型論——第6章の多軸分類は現代の類型論の先駆。
- 反・言語人種主義——第10章は、20世紀の「国語の精神」言説への解毒剤であり続けている。
同じ時代の一冊、ソシュール『一般言語学講義』は「概要」「やさしく〈前半〉」「三つのことば」へ。ソシュールが体系の内部論理へ向かうのに対し、サピアは言語を文化・歴史・人種・芸術のあいだに置いた。二人は独立に、「形式は差異であって実体ではない」という同じ直観にたどり着いている。