「意味とは使用である」。では、その「使用」を正しく/誤って行う、とはどういうことか。『哲学探究』後半は、この問いを数列で立てる。生徒に「+2」の規則を教える。生徒は 2, 4, 6, …, 1000 と進み、そこで 1004, 1008, 1012 と書く。「ちがう、1002 だ」と言うと、生徒は心底けげんな顔で——「でも、同じようにやっただけです」(§185 の場面)。

1. 規則のパラドックス

規則:「+2 で続けよ」 … 996, 998, 1000, ? 1002 (「ふつうの」続け方) 1004 (「1000 以降は +4」と解釈すれば) … その他、いくらでも 「どんな続け方も、ある解釈のもとで規則に合致させられる」(§201)
規則の記号そのものは、次の一手を一意に決めない。「+2」も、無数の続け方と両立してしまう。図:L/LAB

ウィトゲンシュタインはこれを「私たちのパラドックス」と呼ぶ——「いかなる規則も行為の仕方を決定できない。どんな行為の仕方も、その規則に合致させることができるからだ」(eine Regel könnte keine Handlungsweise bestimmen, da jede Handlungsweise mit der Regel in Übereinstimmung zu bringen sei, §201 / “every course of action can be brought into accord with the rule”)。以下、ドイツ語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。

「+2」という記号列を見つめても、1000 の次が 1002 だと書いてはいない。「1000 までは +2、その先は +4」という奇妙な規則を当てはめれば、1004 も「規則どおり」になる。そして同じ理屈で、どんな数でも「規則に反する」ことにできる。ウィトゲンシュタインは続ける——「すると、合致も違反もないことになってしまう」(§201)。

2. 解釈は宙に浮く

素朴な対策は、「規則にもう一つ規則(解釈)を添える」ことだ。だがその解釈も記号列だから、また別の解釈を許す。ウィトゲンシュタインいわく、「どの解釈も、解釈されるものと一緒に《宙に浮いて(hängt … in der Luft)》」おり、規則の支えにはなれない(§198)。

解釈をいくら積んでも底を打たない。だからウィトゲンシュタインは方向を変える——「解釈ではない規則の把握の仕方があり、それは、適用の場面ごとに、私たちが《規則に従う》《規則に反する》と呼ぶことのなかに現れる」(§201)。規則を支えるのは、頭のなかの解釈ではなく、やってみせることだ。

3. 規則に従うことは「実践」である

できないこと 一人・一回だけ =「規則に従う」とは言えない 必要なこと 繰り返される慣習・制度 = 共同体の実践(Praxis)が「正しさ」を支える
「規則に従うことを、人はただ一度だけ行うことはできない」(§199)。規則は、繰り返される公共の慣習に根ざす。図:L/LAB

Darum ist »der Regel folgen« eine Praxis. Und der Regel zu folgen glauben ist nicht: der Regel folgen. Und darum kann man nicht der Regel »privatim« folgen. (Hence “following a rule” is a practice. And to think one is following a rule is not to follow a rule. And hence it is not possible to follow a rule “privately.” (§202))

だから「規則に従う」とは一つの実践である。そして、規則に従っていると思い込むことは、規則に従うことではない。それゆえ、規則に《私的に》従うことはできない。(§202)

もし「私的に従う」ことが許されるなら、「従っていると思う」ことと「実際に従う」ことが区別できなくなる(§202)。「規則に従う、報告する、命令する、チェスを指す、といったことは、慣習(習わし、制度) である」(§199)。「規則に従うことを、人はただ一度だけ、生涯に一回だけ行うことはできない」(§199)——正しさの基準は、繰り返される公共の実践に根ざしている。

4. 「私的言語」は可能か

ここから、私的言語の議論が始まる。§243 が想定するのは、語が「話し手だけが知りうるもの、彼の直接的で私的な感覚(seine unmittelbaren, privaten Empfindungen)」を指し、「したがって他人には理解できない」ような言語だ。

そんな言語は可能か。まずウィトゲンシュタインは、私たちが実際にどう感覚語を覚えるかを見る(§244)。子どもが転んで泣く。大人はその自然な泣き声に、まず叫び声を、のちに「痛い」という語を接ぎ木する。「痛い」は泣くことの代わりであって、泣くことの記述ではない。感覚語は、公共の振る舞いに結びつけて教わる。

5. 甲虫の箱

???? 各人が箱を持つ。中身を「甲虫」と呼ぶ。だれも他人の箱を覗けない。 中身が違っても、 空でも、 言語ゲームは同じに回る。
「箱のなかの物は、言語ゲームにまったく属さない。何かとしてすら属さない。箱は空でもよいのだから」(§293)。図:L/LAB

Angenommen, es hätte Jeder eine Schachtel, darin wäre etwas, das wir »Käfer« nennen. Niemand kann je in die Schachtel des Andern schauen … Das Ding in der Schachtel gehört überhaupt nicht zum Sprachspiel; auch nicht als ein Etwas: denn die Schachtel könnte auch leer sein. (Suppose everyone had a box with something in it that we call a “beetle.” No one can ever look into anyone else’s box … The thing in the box has no place in the language-game at all; not even as a something: for the box might even be empty. (§293))

こう仮定しよう——だれもが箱を一つ持ち、そのなかに、私たちが「甲虫」と呼ぶ何かが入っている。だれも他人の箱を覗くことはできない……。箱のなかの物は、言語ゲームにまったく属さない。何かとしてすら属さない。箱は空でもよいのだから。(§293)

「甲虫」という語が共同のやりとりで働くとき、各人の箱の中身が実際に何であるかは、まったく関与しない。もし「痛み」という語が「自分だけが覗ける箱の中身」を指すのだとしたら、その中身は意味の決定に効いていない——「関与しないものとして、考慮から脱落する」。

日記のたとえ(§258)も同じ点を突く。ある感覚が現れるたびに手帳へ「E」と書く。だが「正しく E と書けたか」を照らす基準がない。「ここでは、私に正しく思えるものが何であれ正しい、と言いたくなる。だがそれは、ここでは《正しい》を語れない、ということでしかない」(§258)。

6. なぜ意味論にとって決定的か

意味には規範がある——語の使用には正しい・誤りがある。そして規範には、私的な確信では足りず、公共の基準がいる。これが「意味は公共的である」というテーゼの要だ。前期『論考』では、名は原理的に、一人で対象と結びつけられた。後期は、その像を退ける——語が意味を持つのは、それが共有された実践、生活形式のなかで使われるからだ。

ソール・クリプキは『ウィトゲンシュタインの規則とプライベート・ランゲージ』(1982)で、この議論を「懐疑的パラドックスと、その共同体的解決」として鋭く再構成し、規則遵守問題を現代言語哲学の中心に据えた。解釈には異論も多いが、「意味は個人の頭のなかだけでは完結しない」という論点は、いまも生きている。

まとめ

要点
§185, §201規則の記号は次の一手を一意に決めない(規則のパラドックス)
§198解釈は宙に浮く。解釈だけでは意味は決まらない
§199, §202規則に従うことは慣習・制度・実践。一人・一回では成り立たない
§243–244感覚語は、自然な振る舞いに接ぎ木して教わる
§258私的な記号には「正しさ」の基準がない
§293甲虫の箱——私的な中身は言語ゲームに関与しない

つながり

ウィトゲンシュタイン特集:概要像の理論言語の限界言語ゲーム家族的類似/本記事。