『論理哲学論考』は、たった一文で終わる。

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen. (Whereof one cannot speak, thereof one must be silent. (7))

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。(命題 7。ドイツ語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ)

20世紀哲学でもっとも引用された一文だろう。だがこれは、詩的な締めくくりでも神秘趣味でもない。像の理論——「意味を持つ命題とは、事実を写す像である」——を認めたら、そこから論理的に出てくる結論だ。この記事は、その線がどこに引かれるのかを追う。

1. 三つの領域——意味あり/意味を欠く/意味をなさない

意味あり(sinnvoll) 事実を写す命題 「雨が降っている」 = 自然科学の命題 真偽を現実と比べられる 意味を欠く(sinnlos) トートロジー 「雨が降るか降らないかだ」 矛盾もここ 何も語らないが、無意味ではない 意味をなさない(unsinnig) 疑似命題 「善は対象である」 哲学・倫理・形而上学の多く 問いの形をしているが、問いになっていない
『論考』の言語像。真に語れるのは左だけ。中央は論理の骨組み、右は「言語の論理の誤解」から生じた見せかけの命題。図:L/LAB

命題には三種類ある。意味を持つ命題(sinnvoll) は事実を写す——現実と比べて真偽が決まる。意味を欠く命題(sinnlos) はトートロジーと矛盾で、「雨が降るか降らないかだ」のように何も語らない。ただしこれは論理の骨組みであって「無意味ではない(nicht unsinnig)」(4.4611)。問題は第三の意味をなさないもの(unsinnig)。「善は対象だ」「世界には意味がある」——文の形はしているが、事実を写してもいないし、論理でもない。ウィトゲンシュタインによれば、伝統的な哲学の命題の多くはここに落ちる。「大部分の哲学の問いと命題は、偽ではなく、意味をなさない」(4.003)。

2. 「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」

語れること = 考えられること = 世界 この円の外側について 「その先には X がある」とも 「X はない」とも言えない。 限界は内側からしか引けない。 「考えられないことを、私たちは考えられない。だからそれを言うこともできない」(5.61)
限界は、両側から引くものではない。外側に立てないのだから、境界の向こうを名ざすことはできない。図:L/LAB

Die Grenzen meiner Sprache bedeuten die Grenzen meiner Welt. (The limits of my language mean the limits of my world. (5.6))

私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。(5.6)

大事なのは、この限界を両側から引けない、という点だ。「論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある」(5.61)。だから「論理のなかで『これこれは世界にあり、あれはない』とは言えない」。境界の向こうに何かがある、と指させるなら、私たちはすでにその向こうを思考できていることになる。ウィトゲンシュタインの結論——「考えられないことを、私たちは考えられない。だから、考えられないことを言うこともできない」(5.61)。限界は、内側からしか引けない。

3. 語ること vs 示すこと

では、境界そのものや、その外側にあるものは、どうなるのか。消えるのではない。示される(sich zeigen)

Was gezeigt werden kann, kann nicht gesagt werden. (What can be shown cannot be said. (4.1212))

示されうるものは、語られえない。(4.1212)

論理形式は命題のなかに映るが、命題はそれを語れない(前記事)。同じ構造が、論理を超えたところにもある。

Es gibt allerdings Unaussprechliches. Dies zeigt sich, es ist das Mystische. (There is indeed the inexpressible. It shows itself; it is the mystical. (6.522))

たしかに、言い表せないものがある。それはおのずと示される。それが神秘的なものである。(6.522)

「神秘的」とは、超自然のことではない。「世界が《どう》あるかではなく、世界が《ある》ということ、それが神秘的なのだ」(6.44)。事実の総体は語れる。だが「事実の総体がある」ということ自体は、事実ではないから語れない——ただ、示される。

4. 倫理と価値は「世界の外」にある

世界の内部 「すべてはあるがままにあり、 起こるがままに起こる」(6.41) 世界の外 価値、意味、倫理 「倫理は超越論的である」(6.421)
世界の内部には価値がない。あるとすれば、それは世界の外になければならない——だから語れない。図:L/LAB

Der Sinn der Welt muß außerhalb ihrer liegen. (The sense of the world must lie outside the world. (6.41))

世界の意味は、世界の外になければならない。(6.41)

世界の内部では「すべてはあるがままにあり、起こるがままに起こる。そこに価値はない」(6.41)。価値があるとすれば、事実の連なりのにある。だから——「倫理が言い表せないことは明らかだ。倫理は超越論的である」(6.421)。これは倫理の否定ではない。倫理は命題で語るものではなく、生き方において示されるもの、という主張だ。「倫理と美学は一つである」(6.421)。

5. はしごを投げ捨てる

だが、ここで『論考』は自分に刃を向ける。「命題は像である」「倫理は超越論的だ」——これらの文自身は、事実の像でも論理でもない。つまり、この本の文もまた unsinnig なのだ。ウィトゲンシュタインは逃げない。

Er muß sozusagen die Leiter wegwerfen, nachdem er auf ihr hinaufgestiegen ist. (He must, so to speak, throw away the ladder after he has climbed it. (6.54))

彼は、いわば、はしごを登りきったあとで、それを投げ捨てねばならない。(6.54)

私の命題を理解した者は、最後にそれを「意味をなさない」と見抜く。そして「これらの命題を乗り越えたとき、世界を正しく見る」(6.54)。この一節の読み方は分かれる。伝統的な読みでは、「語りえないが確かにある真理」を『論考』は指し示している。近年の**「決然たる読み(resolute reading)」** では、そんな真理はなく、ナンセンスは端的にナンセンス——それを自分で見てとることが本の目的だ、とする。どちらを取るにせよ、本は自分を消してみせる。

6. 沈黙、そして再開

命題7の「沈黙」は、「倫理について黙れ」という命令ではない。「これらは命題で扱う事柄ではない」という線引きだ。価値や生の意味は、論じるものではなく、示されるもの——語りうる限界の、外側にある。

興味深いのは、後期ウィトゲンシュタインが、まさにこの沈黙の領域に戻っていくことだ。『論考』が「像でないから語れない」として脇に置いたもの——「意味」「理解」「規則に従う」「痛み」といった言葉の働き——を、『哲学探究』は再び正面から扱う。ただし今度は、それらを像として分析するのではなく、言語ゲームのなかでどう使われているかを記述することによって。「語りえぬもの」の一部は、問いの立て方を変えれば語れた、というわけだ。

まとめ

『論考』の立場命題番号
語れるもの事実を写す命題(=自然科学)4.11, 6.53
意味を欠くが無意味でないトートロジーと矛盾(論理の骨組み)4.461, 4.4611
意味をなさない「語りうる限界」を超えた疑似命題(哲学の多く)4.003
示されるだけ論理形式、倫理、価値、「世界がある」こと4.1212, 6.421, 6.522
本自身はしご——理解したら投げ捨てる6.54
結び語りえぬものについては沈黙する7

つながり

ウィトゲンシュタイン特集:概要像の理論/本記事/言語ゲーム家族的類似規則に従うこと