全体像で触れたように、『坊っちゃん』は、江戸弁の速いリズムを持つ小説である。この特集の最後の精読として、その第一文に戻り、どのような文の構造が、この速度感を生んでいるかを確かめる。
第一文
『坊っちゃん』は、この一文から始まる。
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。
わずか23文字。主語すら明示されない。「親譲りの無鉄砲」という、原因(生まれつきの性格)が先に置かれ、「小供の時から損ばかりしている」という、結果(人生を通じての傾向)が、間髪を入れずに続く。一文のなかに、性格診断と、その人生への影響が、圧縮されて詰め込まれている。
第二文——即座に差し出される証拠
第一文の主張は、すぐに、具体的なエピソードによって裏づけられる。
小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。
抽象的な自己診断(無鉄砲)から、具体的な事件(二階から飛び降りる)へ——この移行に、迷いがない。「〜事がある」という、経験を報告する形で、単発のエピソードが、すぐさま提示される。
理由への先回り
三文目は、さらに畳みかける。
なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。
読者が抱くであろう疑問(なぜ、そんなことをしたのか)を、語り手自身が先回りして提示し、「別段深い理由でもない」と、あっさり片付けてしまう。この先回りの構文は、前の記事で見た、「おれ」の性急な気性——立ち止まって説明することを嫌う性格——を、文の運び方そのもので体現している。
「こころ」の冒頭との対比
この速度感は、同じ漱石による、別の小説の冒頭と比べると、いっそう際立つ。記事009で読んだ、『こころ』の第一文は、こうだった。
私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。
『こころ』の語り手は、「先生」という呼び名の由来を、慎重に、一歩ずつ説明していく。「常に」「だから」「ただ」——理由づけの言葉を積み重ね、性急な断定を避けている。『坊っちゃん』の語り手が、証拠も見せずに「無鉄砲だ」と言い切ってしまうのとは、正反対の速度である。
| 『坊っちゃん』 | 『こころ』 | |
|---|---|---|
| 一人称 | おれ | 私(わたくし) |
| 第一文の型 | 性格の断定+結果の要約 | 呼び名の由来の、慎重な説明 |
| 速度 | 速い。証拠は後追いで示される | 遅い。理由づけを積み重ねる |
| 文体 | だ体・言い切り | である体・説明的 |
同じ「である体」の系譜にありながら、漱石は、語り手の性格に応じて、文の速度そのものを、まったく違うものに作り変えている。
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、この比較は、『坊っちゃん』と『こころ』という、発表年が8年離れた二作品を並べたものであり、漱石の文体が時系列でこのように変化したと主張するものではない。 漱石は、この間にも、性格の異なる語り手を持つ、さまざまな作品を書いている。
第二に、「速度」という評価基準は、ToLによる分析上の道具であり、文の長さや接続の仕方から相対的に判断したものである。 厳密な計量的分析(音節数や句読点の間隔の統計など)は、この記事では行っていない。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 第一文の構造 | 「親譲りの無鉄砲で」(原因)+「損ばかりしている」(結果)を一文に圧縮 |
| 第二文 | 抽象的な自己診断が、即座に具体的なエピソードで裏づけられる |
| 第三文 | 読者の疑問を先回りし、あっさり片付ける |
| 『こころ』との対比 | 同じである体でも、理由づけを積み重ねる『こころ』とは、速度が正反対 |
一言でいえば——『坊っちゃん』の冒頭は、性格の断定と結果の要約を一文に圧縮し、証拠と理由を後追いで示す、性急でスピード感のある構造を持っている。