前の記事で、三島由紀夫が、「行動は外側からとらえられ、行為者自身には何もわからない」ということを、『太平記』の一節で示したことを見た。この記事では、三島の分析を離れ、その原文に戻って、行動描写の文章が、どう作られているかを確かめる。(『太平記』は、パブリックドメインの原典として扱う。)
橋の上の戦い
三島が引く一節は、『太平記』巻第十五、橋の上での戦いの場面である。
「人なりと思はん人は、寄合つて力根の程を御覧ぜよ」と云ふ所へ、爰や彼処に散り散り走り渡り、堀の上なる逆茂木を、二本三本踏ぞんだるを、右の足を揚げて、二筋渡せる八九寸の関の木を、木戸の脇に突きける。二人ともに橋の上をさらさらと走り渡り……(『太平記』巻第十五)
動詞の連続
この一節を、動詞(およびそれに準ずる語)だけを抜き出してみると、こうなる。
- 思はん(思う)
- 御覧ぜよ(見よ)
- 走り渡り(走って渡り)
- 踏ぞんだる(踏み損なった)
- 揚げて(上げて)
- 突きける(突いた)
- 走り渡り(走って渡り)
短い一節のなかに、七つの動作が、途切れることなく連なっている。主語は、「人」「二人」とだけ示され、その人物の考えや感情を表す語は、ほとんど現れない。「思はん」は、相手への呼びかけの一部であり、話者自身の内面を描くものではない。
心理描写との、対比
これを、第二章や、心理描写の記事で読んだ、日本文学の心理描写の伝統と比べると、際立った違いが見える。心理描写は、心と、感情と、情緒と、気分と、雰囲気を、綜合的に描くものだった。だが、この『太平記』の一節には、その要素が、ほとんどない。あるのは、「走る」「踏む」「揚げる」「突く」という、体の動きだけである。
三島が、「行動は外側からとらえられ、行為者自身には何もわからない」と言ったことは、この文の作りそのものから、確かめることができる。読者は、走り渡った二人の兵が、何を考え、何を感じていたかを、この文からは、まったく知ることができない。知ることができるのは、彼らが、何をしたか、だけである。
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、この記事の「動詞を数える」という読み方は、ToLによる、原文そのものへのアプローチである。 三島自身が、この一節を、このように分解して見せているわけではない。
第二に、『太平記』は、軍記物語というジャンルそのものが、行動を語ることを目的とした文学である。 この一節が、行動描写に徹しているのは、ジャンルの性質でもあり、三島の論点を証明するために選ばれた、代表的な例文として読むのがよい。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 引用箇所 | 『太平記』巻第十五、橋の上の戦いの場面 |
| 動詞の連続 | 「走り渡り」「踏ぞんだる」「揚げて」「突きける」など、七つの動作が途切れず続く |
| 心理描写との対比 | 心・感情・情緒を表す語が、ほとんど現れない |
| 確かめられること | 「行動は外側からとらえられる」という三島の主張は、文の構造そのものから読み取れる |
一言でいえば——『太平記』の一節は、動詞だけを積み重ねて進み、行為者の内面にはいっさい触れない。三島の「行動は外側からとらえられる」という言葉は、この文の作り方に、確かに根ざしている。