前の記事で、三島由紀夫が、擬音詞(オノマトペ)を、二つの相反する働きをもつものとして論じたことを見た。一方には、大衆小説の、感覚を惜しみなく注ぐ擬音詞がある。他方には、鷗外の、抑えられた、数少ない擬音詞がある。この記事では、三島が引いた織田作之助『夫婦善哉』の一節を、改めて読み、第二章から続く、視覚と聴覚という糸につなげてみる。
『夫婦善哉』の擬音詞
三島が引く一節は、こうだった。
鋸山がガタ〳〵と云ふあひだへ、きん〳〵とした勝代の声が短く挟まって、鈍感な豚を錐で突いて檻へ追ひこむ感じだ。(織田作之助『夫婦善哉』)
「ガタ〳〵」は、鋸山(映画館の名)の音であり、「きん〳〵」は、勝代という人物の声である。二つの擬音詞が、一つの文のなかで重なり合い、「鈍感な豚を錐で突いて檻へ追ひこむ感じ」という、身体感覚に訴える直喩へとつながっていく。
擬音詞は、耳だけでなく、感触にも及ぶ
ここで注目したいのは、「ガタ〳〵」「きん〳〵」という、聴覚に訴える擬音詞が、最後には、「錐で突いて」という、触覚的なイメージに着地していることである。音が、音のままで終わらず、身体的な感触へと姿を変える。これは、擬音詞が、たんに音を写しとる道具ではなく、感覚全体を圧縮して伝える装置として使われていることを示している。
三島が、擬音詞について、「抽象性をもたない」「感覚的で具体的な世界を伝える」と評したことは、この一節から、具体的に確かめることができる。「ガタ〳〵」も「きん〳〵」も、辞書的な意味をほとんどもたない、純粋に音を模した語でありながら、読者には、鋸山の機械音と、勝代の耳障りな声とが、ありありと伝わってくる。
鷗外の、抑えられた擬音詞
これに対して、三島が挙げる鷗外の例は、「玄関のベルがチリンと鳴った」というような、ごく短く、抑えられた使い方である(この一節そのものは、原本のスキャンの精度が粗く、鷗外のどの作品からの引用かは、この記事では特定していない)。「チリンと鳴った」は、「ガタ〳〵」「きん〳〵」のように、感覚を畳みかけるものではなく、一度きりの、単純な音の描写にとどまる。
第二章で読んだように、三島は、鷗外の文章を、簡潔で、抑制の効いた文体の代表として、繰り返し引いている。「水が来た」という、たった四音の描写を評価した鷗外の姿勢は、この章の擬音詞の使い方にも、一貫して現れている。
視覚の文字と、耳の文字——再び
第二章で、三島は、男文字(視覚的、記号的な文字)と、女文字(音声的、身体的な文字)という対比を語った。擬音詞は、まさに「耳の文字」の極端な形である。それは、意味を伝えるのではなく、音そのものを、文字によって模倣しようとする。
鷗外が擬音詞を抑えたことは、彼が、視覚的で、記号的な文体を好んだこととも、符合する。一方、大衆小説が擬音詞を多用したことは、読者の感覚に、直接、身体的に訴えかけようとする、女文字的な傾向の延長として読むことができる。ただし、これは、ToLによる、第二章と第七章を橋渡しする読み方であり、三島自身が、両者を、このように明示的に結びつけているわけではない。
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、鷗外の「チリンと鳴った」の出典は、この記事では特定していない。 三島の引用のなかの、ごく短い例示として扱う。
第二に、第二章の「男文字と女文字」と、この章の擬音詞の対比を結びつける読み方は、ToLによる補助線であり、三島自身の議論そのものではない。 読者は、この二つの章を、独立した論点としても読むことができる。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 『夫婦善哉』の擬音詞 | 「ガタ〳〵」「きん〳〵」が重なり、聴覚が触覚的なイメージに着地する |
| 鷗外の擬音詞 | 「チリンと鳴った」。一度きりの、抑えられた使い方 |
| 二つの対比 | 感覚を畳みかける大衆小説と、抑制する鷗外の文体 |
| 第二章とのつながり | 男文字(視覚・記号)と女文字(聴覚・身体)の対比の延長として読める(ToLによる補助線) |
一言でいえば——『夫婦善哉』の擬音詞が感覚を畳みかけるのに対し、鷗外の擬音詞は一度きりで抑えられている。この対比は、三島がこの本を通して語ってきた、簡潔さと過剰さという主題の、もう一つの現れである。