第七章は、「人物描写」から、「自然描写」、そして「心理描写」へと進む。この二つの節で、三島は、日本文学が、世界のなかで、とりわけ得意としてきた技巧を論じる。(ページ数は、全体像の記事で述べた版による。)

風景が、人物を圧倒する

三島は、こう言い切る。

風景描写にかけては、日本の作家は世界に卓絶した名手だということができましょう。

その理由を、三島は、東洋画の伝統に見る。風景のなかに、小さな人物が点綴される東洋画のように、人間と自然のあいだに対立のない東洋的世界では、風景描写が、人物を圧倒するような力をもつ、というのである。

三島は、外国の文学では、特殊な紀行文を除いて、風景が小説からはみ出し、その小説独特の魅力になる、というものは、数多くない、と言う。スタンダールの簡潔な自然描写や、北欧の作家ヤコブセンの『モーゲンス』などに、日本の自然描写に似たものを感じる、とも述べる。(これらは、他者の手による日本語版を介してしか読めない作品であり、その書き手の権利にも配慮し、この記事では本文の引用を行わない。)

象徴としての、自然描写

三島は、自然描写が、単なる背景ではなく、象徴的なエロティックな女性を表現することがある、と言う。これは、小説の描写の重要な要素になる。人物描写もまた、具体的な人物を指示するものから、象徴的、間接的な人物描写まで、さまざまなニュアンスをもつ。戯曲でよく行われる手法として、最後まで舞台に登場しない人物について会話が交わされたり、小説『レベッカ』のように、すでに死んだ女について、物語がその女のまわりを回転する場合もある、と三島は述べる。

心理描写——平安朝以来の、十八番

節を移して、三島は、心理描写を論じる。

心理描写は平安朝の女流作家の時代から日本文学の十八番の一つでありました。

ただし、それが今日言われるような心理描写とは、いろいろな意味で違っている、と三島は続ける。日本の作家は、心理と感情と情緒と気分と雰囲気と、さらにその先に続く、自然の象徴的な要素までも、綜合的に描いてきた、というのである。

自然の静けさと、人間の時間

三島は、自然描写と小説の関係に話を進める。小説は、あくまでも人間関係の物語であり、その発生過程は、そもそも反自然的なものである。日本の小説が、小説よりも詩に近い要素を多くもつ、と三島が述べたことは、こうした自然描写の特殊性にもかかってくる、というのである。

三島は、人物描写の節で挙げた引用にも触れ、そこでは、あたかも人物が自然そのもののように描かれていると感じられたはずだ、と述べる。人間の生活の時間的な継続、変化、破綻というダイナミックな要素よりも、自然の静的で象徴的な要素の方に、日本の作家は、今なお強く引かれている——それが、日本の小説の特殊性を作っている、というのが、三島の見立てである。(この一節は、原本のスキャンの精度が粗く、細部は、この趣旨の範囲で要約している。)

自然描写 東洋画の伝統。人間と自然に対立がない 風景が人物を圧倒する力をもつ 心理描写 平安朝の女流文学以来の、十八番 心理・感情・情緒・気分・雰囲気を綜合する 両者は、象徴という一点で結びつく——自然が象徴的な女性を表現し、人物が自然のように描かれる 図:ToL(第七章「自然描写」「心理描写」の説明による)
自然描写と心理描写、二つの得意技。図:ToL

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、「日本の作家は世界に卓絶した名手」という評価は、三島の主観的な判断であり、比較文学上、実証されたものではない。 これは、日本文学への、三島自身の高い評価として読むのがよい。

第二に、武田泰淳、幸田文からの引用は、著作権が存続している可能性が高いため、この記事では行っていない。 三島がこの節で挙げる、具体的な作品の実例は、読者自身が、原典にあたって確かめる必要がある。

第三に、スタンダールやヤコブセンの一節も、他者の手による日本語版でしか読めないものであり、その書き手の権利に配慮し、この記事では本文の引用を行っていない。

まとめ

論点内容
自然描写日本の作家が世界に卓絶する分野。東洋画の伝統で、風景が人物を圧倒する
象徴としての自然自然描写が、象徴的なエロティックな女性を表現することもある
心理描写平安朝の女流文学以来の、日本文学の十八番
二つの接点心理と自然が綜合され、人物があたかも自然のように描かれることがある

一言でいえば——三島は、風景が人物を圧倒する自然描写と、平安朝以来の心理描写を、日本文学の二つの得意技として並べ、その接点に、象徴という技法を見た。