第七章は、「行動描写」を経て、「文法と文章技巧」という、章の最後の節に至る。ここで、三島は、心理描写を得意とする日本文学が、もっとも苦手とする分野——行動——を論じ、続けて、人称や擬音詞といった、より実作に近い工夫を語る。(ページ数は、全体像の記事で述べた版による。)

行動は、文学の特技ではない

三島は、はっきりと言う。心理描写が文学の特技であるとすれば、行動描写は、文学の特技とは言えない。映画が現れて、人間の行動を描くのに、もっとも便利な媒体が完成した。叙事詩の時代には、文学は行動を描いたが、その行動は、詩の韻律や装飾的表現、類型的な技法によって飾られ、行動全体の大きな絵巻物を描くことはできても、行動そのものの内的な本質には迫ろうとしなかった、と三島は述べる。

槍投げの比喩

三島は、行動と表現の関係を、槍投げの比喩で語る。観察者が、槍投げの人のフォームを見て、それを言葉にしようとしても、槍が飛び去った、その瞬間の体験は、行動者自身にもわからない。行動者は、行動しながら、同時にそれを表現することはできない。行為と表現は、分業に分かれたところに、叙事詩が成立した、と三島は言う。

第三者だけが、行動を見る

三島は、行動描写の核心を、こう述べる。行動は、外側からとらえられる。行為者自身には、何もわからない。それを見ているのは、いつも第三者である。

三島は、この論点を、『太平記』の一節で示す。

人なりと思はん人は、寄合つて力根の程を御覧ぜよ」と云ふ所へ、爰や彼処に散り散り走り渡り、堀の上なる逆茂木を、二本三本踏ぞんだるを、右の足を揚げて、二筋渡せる八九寸の関の木を、木戸の脇に突きける。二人ともに橋の上をさらさらと走り渡り……(『太平記』巻第十五)

行動は外側からとらえられ、行為者自身には何もわからないものを、第三者がとらえる——これが、行動描写の本質だ、と三島は言う。槍を投げるとき、その人自身は、意志と神経の緊張によって行動しているのであって、自分の行動を、同時に見つめ、言葉にすることはできない。行動の体験は、行った瞬間に、時間のなかへ消え去ってしまう。それを見て、記録し、言葉にするのは、いつも別の人間——観察者であり、表現者である。行動と、行動の表現とが、最初から分業に分かれていたところに、叙事詩というものが成立した、と三島は言う。(この一節は、原本のスキャンの精度が粗く、大意をつかんだ要約とした。)

文法と文章技巧——人称の問題

章の最後の節「文法と文章技巧」で、三島は、まず人称の問題を取り上げる。小説は、一人称か三人称で書かれるものと決まっていた。フランスの「反小説」には、二人称の小説も現れたが、それは特殊な例であり、依然として、小説は一人称か三人称で書かれるものと決まっている、と三島は述べる。

日本語の私小説は、ドイツのイッヒ・ロマーンに比べられるが、本来はまったく異なるものである、と三島は言う。日本語は、人称をぼかすことの容易な文章であり、暗黙のうちに「彼」を「私」と混同させ、第三人称まで人称をはぶいても、読者には、ほとんど無限に人称をはぶいていることがわかるという、日本語独特の文法技法がある、と三島は指摘する。

三島は、『源氏物語』を、その一例として挙げる。いったん人称が定着されれば、あとは、ほとんど無限に人称を省いても、読者には、誰のことかがわかる、というのである。三島は、私小説の伝統についても触れ、作家自身の経験を語るときでも、小説上の約束ごとが、厳密に定着されているために、かえって、その人称の運用が、独特の緊張感を帯びる、と述べる。(この一節は、原本のスキャンの精度が粗く、大意をつかんだ要約とした。)

擬音詞という、小さな工夫

節の終わりに近く、三島は、擬音詞(オノマトペ)の使い方を論じる。擬音詞は、日常会話を生き生きとさせ、表現力を与える一方で、それを類型化し、卑俗にする働きもある、と三島は言う。大衆小説などでは、擬音詞が濫用され、堕落した、型にはまった使い方になりがちだ、と述べる一方、鷗外の文章のなかにも擬音詞が使われている手法があり、「玄関のベルがチリンと鳴った」のような、抑えた使い方の例を挙げる(子供の擬音詞に対する感受性にも触れている)。

三島は、擬音詞の第一の特徴は、抽象性をもたないことだ、と言う。言語の抽象性が本来の機能を汚し、濫用されるにおよんでは作品の世界の独立性を汚す、と述べ、それが子供の耳に伝達するだけの、抽象的な作用しかもたない場合には、言語が本来の機能をもたない、感覚的で具体的な世界を伝える働きをすることがある、と三島は述べる。(この一節も、原本のスキャンの精度が粗く、大意をつかんだ要約とした。)

三島は、織田作之助『夫婦善哉』から、擬音詞を効果的に使った一節を引く。

鋸山がガタ〳〵と云ふあひだへ、きん〳〵とした勝代の声が短く挟まって、鈍感な豚を錐で突いて檻へ追ひこむ感じだ。(織田作之助『夫婦善哉』)

三島は、幸田文のように、女性が自分の感覚的真実を人に伝えるために、やむなく用いた暴力的手段とも言うべきもの、として、擬音詞のような技法を挙げる。(幸田文の本文そのものは、著作権が存続している可能性があるため、この記事では引用しない。)

行動描写 行動は外側からとらえられ、行為者自身には何もわからない 『太平記』の例。行為と、それを見る第三者の表現とは、分業になっている 心理描写を得意とする日本文学が、もっとも苦手とする分野 文法と文章技巧 日本語は人称をぼかしやすい。三人称まで省いても、読者には通じる 擬音詞:抽象性がなく、感覚的・具体的な世界を伝える 織田作之助『夫婦善哉』の例。鷗外は擬音詞の乱用を嫌った 図:ToL(第七章「行動描写」「文法と文章技巧」の説明による)
行動描写と、文法の工夫。図:ToL

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、「文法と文章技巧」の節の一部は、原本のスキャンの精度が粗く、細部の再構成が難しい。 この記事では、原文の画像で確認できた『太平記』と『夫婦善哉』の引用にとどめ、それ以外は、大意をつかんだ要約として書いている。

第二に、『太平記』は、パブリックドメインの原典として扱っている。 織田作之助(1947年没)も、日本の著作権保護期間のもとで、すでに著作権が満了している。

第三に、「行動は外側からとらえられる」という三島の議論は、次の精読の記事で、『太平記』の引用に戻って、さらに詳しく確かめる。

まとめ

論点内容
行動描写の性質行動は外側からとらえられ、行為者自身には何もわからない
『太平記』の例行為と、それを見る第三者の表現とは、分業になっている
人称の工夫日本語は人称をぼかしやすく、三人称まで省いても、読者には通じる
擬音詞抽象性がなく、感覚的・具体的な世界を伝える。鷗外は乱用を嫌った

一言でいえば——三島は、行動が第三者にしか観察できないことを『太平記』の一節で示し、章の最後では、人称と擬音詞という、日本語ならではの、小さな文法上の工夫に目を向けた。