第二章の最後の節「文章を味わう習慣」は、この章のなかで、いちばん身近な話題を扱う。三島は、文章そのものではなく、文章の読まれ方が、時代によって変わってきたことを語る。(ページ数は、全体像の記事で述べた版による。)
「どりや書見をいたそうか」
節は、歌舞伎の一場面から始まる。ときどき侍が、悠々たる恰好で出てきて、見台に本を置いて、「どりや書見をいたそうか」と言って本を読み出す。三島は、われわれは、もう、こんなふうに本を読むことはほとんどない、と言う。
昔は、字引を枕にしたり、お尻に敷いたりすると、親に叱られたものだが、今は、そんなことを叱る親はいないだろう、と三島は続ける。泉鏡花は、ほんのちょっとした字の書いてある新聞の切れはしでも、粗末に扱わなかった、という逸話を挙げ、今のマスコミ時代に、そんなに文字を大切にしていたら、身がもたないだろう、と述べる。
週刊誌は、読み捨てられる
週刊誌は、読み捨てられる運命にある。三つ四つの駅を通過する、通勤電車のなかで、隅から隅まで目を通され、網棚に残される。三島は、外国の飛行場の待合室で、大きな『ライフ』誌が椅子の上に置かれているのを見て、忘れ物だと思い、人に声をかけたことがある、というエピソードを語る。すると、その人は、それを読み捨てるつもりだったと答えた、という。
自動車のドライブと、歩く旅
三島は、この変化を、旅の比喩で語る。現代人は、自動車でドライブをするときのように、小説を読む。窓の外に見える生垣や、遠くの山を、それとして味わうのではなく、テーマの展開と筋の運びだけを、はっきりと追ってしまう。ところが、それらは、本当は、言葉によって織り上げられた織物なのだ、と三島は言う。小説家は、その織模様の美しさによって、人を喜ばせようとしているのに、である。
これに対して、昔の読者は、一冊の本を、ゆっくり歩くようにして読んだ、と三島は言う。交通機関が発達したいまの読者が、車窓の風景を一瞬で見過ごしてしまうのに対し、昔の読者は、道端に咲く草花の一つ一つを楽しむように、文章の一つ一つを味わうことができた、というのが、三島の対比である。
絵の色彩、音楽の音
三島は、この対比を、絵画と音楽のたとえで、さらに掘り下げる。次の一文は、原文の画像で確認できる。
あなた方は絵を見るときに色彩を見ないでしょうか。(p.44)
絵を見るとき、色彩を見ないでいられる人はいないだろう。それなのに、小説を読むときは、言葉そのものを味わわず、筋だけを追ってしまう。三島は、これと同じ問いを、音楽についても向ける。音楽を聴くとき、われわれは、音そのものを、長いあいだ、耳で味わう習慣を持っていた。言葉は、小説における色彩であり、音譜である、というのが、三島がこの節で言おうとしていることである。
現代人への問い
節の結びで、三島は、現代の読者に、静かな問いを投げかける。文学作品の享受のされ方は、時代とともに変わる。それでも、言葉そのものを味わう習慣を失わないでほしい、というのが、この節、そして第二章全体を通しての、三島の願いである。
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、この節の多くの箇所は、スキャンの精度が粗く、正確な逐語的引用が難しい。 この記事では、原文の画像で確かに読み取れた一文(「あなた方は絵を見るときに色彩を見ないでしょうか」)だけを引用とし、それ以外は、文意を汲んだ要約として書いている。断定的な言い切りとしてではなく、三島の言おうとした趣旨として読んでほしい。
第二に、「現代人は文章を味わわなくなった」という三島の診断は、1959年の時点での、メディア環境(週刊誌、通勤電車)を前提にしている。 その後のメディア環境の変化(テレビ、インターネット、電子書籍など)は、この記事では扱っていない。三島の診断が、今も同じ形で当てはまるかどうかは、別に考える必要がある。
第三に、この節は、第二章全体の締めくくりとして、「読み方」の問題に戻ってくる。 これは、第一特集で読んだ、レクトゥール(普通読者)とリズール(精読者)の区別と、同じ問題意識でつながっている。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 昔の読み方 | 歌舞伎の「どりや書見をいたそうか」。泉鏡花は新聞の切れ端も大切にした |
| 現代の読み方 | 週刊誌は読み捨てられる。外国の空港で『ライフ』誌を忘れ物と間違えた話 |
| 二つの比喩 | 歩く旅(一つ一つ味わう)と、自動車のドライブ(筋の展開だけを追う) |
| 味わうこと | 絵の色彩、音楽の音のように、言葉そのものを味わうこと |
| 第一章との接続 | レクトゥールとリズールの区別と、同じ問題意識 |
一言でいえば——三島は、文章を味わう習慣が、歩く旅から自動車のドライブへと変わったことを惜しみながら、言葉そのものを味わう読み方へ、読者を引き戻そうとした。