『文章読本』の第一章は、この本が何のために書かれたかを語る、いわば序文である。全体で数ページの短い章だが、この本の性格を決める考えが、ここに詰まっている。(ページ数は、全体像の記事で述べた、中公文庫新装版による。)

鑑賞用の果物

章は、意外な例えから始まる。「鑑賞用の果物」である。三島は、仏手柑を挙げる。見て、香りを楽しむだけで、食べない果物である(p.7)。

では、文章にも「鑑賞用」があるのか。昔は、あった、と三島は言う。美文や、中国の四六駢儷体のような、鑑賞のための特殊な文章である。今は、誰でも文が書ける時代になり、そういう機会は減った。それでも、ごく平易に見える文章にも、職業的な洗練がこらされている、と三島は言う。広告のキャッチ・フレーズも、素人の文章ではない、という(p.7–8)。

大蔵省での経験

三島は、自分の経験を語る。大蔵省に勤めていたころ、大臣の演説の草稿を書かされたことがある。三島は、文学的な原稿を書いたが、それは大臣の威信を傷つけるものだと言われ、上役が根本から改訂した。できあがった文章は、感心するほどの名文だった、と三島は書く。そこでは、感情や個性が取り除かれ、「一定の地位にある人間が不特定多数の人々に話す独特の文体」になっていた(p.8–9)。

この話が示すのは、文章は、目的によって、まったく違う技術を要する、ということである。同じ口語文でも、用途によって、方法上の差がある。

文章に「ルール」はあるか

三島は、婦人雑誌が、結婚生活の心得を、一定のルールとして教えることを引き合いに出し、こう言う。文章には、そのようなものはない。小学校から作文を習い、一定のルールは学ぶが、その先には専門的な修練がある、と。そして、実用的な文章と鑑賞的な文章は、どこかでジャンルが分かれる、と述べる(p.9)。

だから、いわゆる「素人文学」に迎合した、「だれでも書ける」文章読本を、三島は、苦々しく思う。そこで、この本の目的を、次のように限定する。

私はここでこの「文章読本」の目的を、読む側からの「文章読本」という点だけに限定した方が、目的も明確になり、素人文学に対する迷いを覚ますことにもなると思うのです。(p.10)

レクトゥールとリズール

ここで、三島は、チボーデ(フランスの批評家)が小説の読者を二種類に分けたことを紹介する。

そして、三島は、この本の目的を宣言する。

私はこの「文章読本」を、いままでレクトゥールであったことに満足していた人を、リズールに導きたいと思ってはじめるのであります。(p.10)

三島は、これを、「一作家にすぎぬ私にとって僭越な言葉」と断りつつ、作家になるためにも、まず精読者であることから出発する、と言う。ただし、精読者であることと、作家であることのあいだには、「才能というまか不思議な問題」がある、とも書く(p.10–11)。

レクトゥール 普通読者 手当り次第に読む この本が導く リズール 精読者 小説世界が実在する人 才能・運命 作家 精読者が、必ず なれるわけではない 三島の例:サント=ブーヴは最高の精読者だったが、小説は失敗した。 志賀直哉は最高の小説家だが、自分と質の合わない文学を頭から受けつけない。 図:ToL(第一章の三島の説明による)
第一章の見取り図。図:ToL

一つの型を最高としない

三島は、精読者にも、偏りがありうることを、二つの例で示す。サント=ブーヴは、最高の精読者だったが、自分の書いた小説は、ことごとく失敗した。志賀直哉は、最高の小説家だが、スタンダールの『パルムの僧院』を読んで、主人公を「なんだ、ただのグレン隊じゃないか」と決めつけた。三島は、志賀を、自分の資質に合わない文学を拒絶する、「一種の衛生術」の作家と呼ぶ(p.11)。

そして、三島は、自分の中学時代の作文教育に、疑問を持っている、と述べる。そこでは、直叙する文章、修飾のない文章、物事を淡々とそのまま描写する文章が、いい文章と教えられた。しかし、それは、多くの作家が余計なものを削除したのちに、最後に達する理想の境地であって、余分なエネルギーに溢れた中学生に、理解されるはずのものではない、と三島は言う。また、プルーストの文章は、はじめは悪文と見なされたが、今では独創的な文体と言われる、と例を挙げる(p.12)。

ここから、三島は、この本の立場を述べる。

私はなるたけ自分の好みや偏見を去って、あらゆる様式の文章の面白さを認め、あらゆる様式の文章の美しさに敏感でありたいと思います。(p.13)

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、チボーデの区別は、三島の紹介を通して読んでいる。 三島が紹介したとおりにチボーデが述べたのか、チボーデの原典で確かめていない。ここでは、三島がこの区別を、自分の本の目的に据えたことだけを、確かめた。

第二に、三島の「素人文学」への態度は、1959年の、一人の作家の見方である。 現在の目から見れば、読者と書き手の関係は、当時とは違う。ただし、この章が言う、「読む力を養うことが、書くことの出発点」という考えは、今も読める。

まとめ

論点内容
目的読む側からの文章読本。レクトゥール(普通読者)をリズール(精読者)に導く
実用と鑑賞平易な文章にも職業的洗練がある。大蔵省での演説草稿の経験
精読者と作家精読者から出発するが、作家になれるかは、才能・運命の問題
立場一つの型を最高としない。あらゆる様式の美しさに敏感でありたい

一言でいえば——第一章で、三島は、この本を、文章の書き方の指南ではなく、読者を精読者に導くための手引きだと宣言した。