第二章の四つの節(全体像の記事)は、それぞれ独立した話題を扱っているように見える。だが、注意深く読むと、離れた二つの箇所で、三島由紀夫は、同じ一つの主張を、形を変えて繰り返している。この記事では、その二箇所を並べて、主張の中身を確かめる。(以下の引用のページ数は、全体像の記事で述べた版による。)

一つ目の箇所——「男文字と女文字」

「男文字と女文字」の節で、三島は、日本の男性的な文化——論理、理知の文化——が、ほとんど外から来たものだった、と述べたあと、こう続ける。

この影響は明治維新以後にもあいかわらず払拭されませんでした。ドイツ観念論哲学の用語が嵐のごとく日本の知識階級の用語になって流入し、あらゆる抽象概念はドイツ観念論の用語で代用されました。(p.18)

そして、日本語独特の抽象概念にあたるものは、情緒の霧にまといつかれ、感情の湿度に浸潤されて、自立性、独立性、明晰性を持つことができなかった、と三島は述べる。

二つ目の箇所——「文章を味わう習慣」の手前

もう一箇所は、節としては別の、「散文と韻文」の終わりに近いところにある。三島は、伊藤整が『女性に関する十二章』で創始した、漢語を片カナで書く手法に触れて、こう言う。

たとえば伊藤整氏が『女性に関する十二章』のなかで、頻繁に漢語を片カナで書く手法を創始しました。(p.28–29、要旨を含む)

漢語を片カナで書くことは、抽象概念の尊大さを剝奪する、滑稽な効果を生む、と三島は言う。それまでいかめしく並んでいた漢字が、平易な片カナになって裸の形で露呈されることは、「いままで王様だと信じていたものが、裸の王様であったということがわかるような」効果を生む、というのである。

二つの箇所をつなぐと、見えてくること

二つの箇所を並べると、三島の考えの筋道が見える。

  1. 日本語の抽象概念は、もともと日本語の内側から生まれたものではなく、漢語・仏教語・儒教語、そして明治以後はドイツ観念論の用語という、外来の言葉で代用されてきた。
  2. その抽象概念は、片カナで書けば、たちまち滑稽に見える。なぜなら、片カナ書きは、漢字が持つ「いかめしさ」——つまり、外来語であることを覆い隠す、視覚的な重み——を剝ぎ取ってしまうからである。

つまり、三島にとって、日本語の抽象概念の「重み」は、その言葉自体の内容から来るのではなく、漢字という文字の視覚的な効果から来ている、ということになる。片カナにした途端に滑稽に見えるのなら、その重みは、もともと、それほど強固なものではなかった、ということでもある。

箇所①「男文字と女文字」p.18 抽象概念は、ドイツ観念論の 用語で代用された(外来語) 箇所②「散文と韻文」p.28–29 漢語を片カナで書くと、抽象 概念の尊大さが剝奪される つながる筋道 抽象概念の「重み」は、内容ではなく、漢字という文字の視覚効果に由来する 図:ToL(二箇所の主張をつないだもの)
二つの箇所をつなぐ、一本の糸。図:ToL

この主張の、確かな部分

この主張のうち、事実として確かめられる部分がある。日本語の抽象語彙の多くが、漢語(多くは中国古典や仏典に由来する)や、明治期に西洋語の翻訳のために作られた新しい漢語(哲学、社会、権利、自由など)でできていることは、広く知られた事実である。「哲学」という語自体、西周による訳語であり、西洋哲学、とりわけドイツ系の概念を、漢字二字に組み替えて定着させた、歴史的な経緯がある。この限りで、三島の見立ては、大きく外れてはいない。

この主張の、確かめられない部分

一方、そこから三島が導く結論——日本語独特の抽象概念は、情緒の霧にまといつかれ、自立性・独立性・明晰性を持つことができない——は、実証された言語学の主張ではない。

第一に、語の起源が外来語であることと、その語が「明晰さ」を持てるかどうかは、別の問題である。 英語の抽象語彙の多くも、ラテン語やギリシア語に起源を持つ、いわば「外来語」であるが、それによって英語の抽象概念が明晰さを欠くとは、一般に言われない。三島の議論は、語の起源と、語の機能を、あまり区別せずに結びつけている。

第二に、「片カナで書くと滑稽に見える」という現象は、抽象概念そのものの弱さではなく、日本語の表記習慣(漢字とカナの使い分けの慣習)から来る、視覚上の効果である可能性が高い。 これは、抽象概念の内容についての主張というより、日本語の表記システムについての、興味深い観察として読むほうが、無理がない。

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、この記事は、二つの離れた箇所を、ToLの側でつないで読んだものである。 三島自身が、この二箇所を、明示的に一つの議論として結びつけているわけではない。ここでの「一本の糸」という捉え方は、ToLによる読み方であることを、断っておきたい。

第二に、「日本語には論理性が乏しい」という、第一特集の第五章で読んだ主張とも、この議論はつながっている。 三島にとって、これは、単発の思いつきではなく、複数の章にまたがる、一貫した見方だったと考えられる。

まとめ

論点内容
箇所①抽象概念は、ドイツ観念論などの外来の用語で代用された(p.18)
箇所②漢語を片カナで書くと、抽象概念の尊大さが剝奪される(p.28–29)
つながり抽象概念の重みは、内容ではなく、漢字の視覚効果に由来する、という見方
確かな部分日本語の抽象語彙の多くが、漢語・翻訳語であることは、歴史的事実
確かめられない部分外来語だから明晰性を持てない、という結論は、実証された言語学の主張ではない

一言でいえば——三島は、離れた二箇所で、日本語の抽象概念が外来のものだと繰り返したが、その語源についての観察は妥当でも、「だから明晰性を持てない」という評価は、三島自身のエッセイとしての見方にとどまる。