第二章の最初の節「男文字と女文字」は、平安朝の文字の使い分けから始まる。約5,400字と短いが、三島の日本語論の核心が、ここに現れる。(ページ数は、全体像の記事で述べた版による。)
女文字の文学
三島は、平安朝の文学が、ほとんど女流の手になったことを、まず確認する。日本の純粋のクラシックは、かなで書かれた。平がなの「くにゃくにゃした形」から、男性的な敢然としたものは感じられない、と三島は言う。
平安朝には、漢字が男文字、平がなが女文字と呼ばれた。『和漢朗詠集』のような漢詩集は、ほとんど男性の手になり、一方、三十一文字の和歌の世界では、女性が代表的な地位を占めた。『土佐日記』の冒頭、「男もすなる日記といふものを」という一文は、三島によれば、男性の作者(紀貫之)が、女文字で書くために、みずから女を仮装したことへの、一種の言い訳である。
論理と情念の、性による分担
ここから、三島は、平安朝の社会そのものへと、話を広げる。論理と感情、理知と情念は、はっきり男女に分かれていた、と三島は言う。女性は感情と情念を、男性は論理と理知を代表した。論理・理知の外延には、政治、経済、社会的関心があり、感情・情念の外延には、情熱、恋愛、嫉妬、報いられぬ恋の悩み、悲しみがあった。
近代文学の常識では、文学は、感情・情念の側に重点が置かれる。しかし、古い中国文化の影響を受けた時代には、そうではなかった、と三島は言う。文章の修辞は、政治や経済にも及び、公共的な機能と私的な機能の、両方の側面を、文章は持っていた。
論理と理知は、外来のものだった
節の後半で、三島は、日本語の歴史に、大きな見方を出す。日本の男性的な文化——論理、理知の文化——は、ほとんどすべて、外から来たものだった、と言う。
平安朝の漢語や中国文学の教養は、武家の時代になると、禅宗や儒教の影響に置き換えられた。そして、明治維新のあとも、この構造は変わらなかった。
この影響は明治維新以後にもあいかわらず払拭されませんでした。ドイツ観念論哲学の用語が嵐のごとく日本の知識階級の用語になって流入し、あらゆる抽象概念はドイツ観念論の用語で代用されました。(p.18)
そして、日本語独特の抽象概念にあたるものは、いつも情緒の霧にまといつかれ、感情の湿度に浸潤されて、自立性、独立性、明晰性を持つことができなかった、と三島は述べる。
志賀直哉の『暗夜行路』
三島は、この構造から、現代の作家も逃れられない、と言う。その例として、志賀直哉の『暗夜行路』の主人公、時任謙作を挙げる。
志賀直哉氏の『暗夜行路』の主人公時任謙作は、彼が行動的人間であると同時に、異常な官能的人間であることで、西洋の近代小説から劃然と離れております。(p.20)
三島は、時任謙作には、抽象概念がまったく欠けているが、行動と恋愛、感覚と官能においてだけ、男性であるのだ、と評する。ここに、日本の文学者が作ってきた男性像の、一つの極限を見る、と言う。
そして、日本人が日本語を使う以上、長い伝統と、日本語独特の特質から逃れることはできない、と三島は結論づける。むしろ、日本文学は、女性的理念、感情と情念の理念において、世界に冠絶していると言ってよい、と述べる。
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、「日本語には固有の抽象概念がなかった」という主張は、三島のエッセイとしての見方であり、実証された言語学の説ではない。 日本語の抽象語彙の多くが、漢語や、明治期に西洋語から作られた訳語であることは、広く知られた事実である。しかし、そこから「日本語独自の抽象概念は自立性・明晰性を持てない」と結論づける部分は、三島自身の評価であって、言語学的に証明された主張ではない。この点は、この特集の精読記事で、さらに検討する。
第二に、『土佐日記』についての三島の説明(紀貫之が女を仮装した)は、広く知られた一般的な理解であり、この記事では、それ以上の検証はしていない。
第三に、志賀直哉の『暗夜行路』についての評は、三島の批評であって、志賀自身の言葉ではない。 この記事は、志賀の本文を引用していない。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 男文字と女文字 | 平安朝、漢字は男文字、かなは女文字と呼ばれた |
| 分担 | 論理と理知は男性、感情と情念は女性が代表した |
| 三島の見方 | 男性の論理・理知の文化は、ほとんど外来のもの(禅宗、儒教、ドイツ観念論) |
| 結果 | 日本語独特の抽象概念は、情緒の霧にまといつかれ、明晰性を持てなかった |
| 例 | 志賀直哉『暗夜行路』の時任謙作。抽象概念を欠き、行動と恋愛でのみ男性 |
一言でいえば——三島は、漢字とかなの性による分担の奥に、日本語の論理・理知の文化が、ほとんど外から来たものだったという見方を見た。