この記事で分かること

先に結論です。 ピンカーは、言語を「クモの巣」にたとえます。クモは、巣作りの名人に習うのでも、建築の素養があるのでもなく、クモの脳を持つから巣を張る。人間も、人間の脳を持つから、言語を身につける。ただし、どの社会にも複雑な言語があるという事実だけでは、本能の証拠にならないことを、ピンカー自身が認めています。そこで、次の記事以降の「子どもが言語を作り直す」議論が必要になります。

常識をひっくり返す

第1章の冒頭で、ピンカーは、読者に、いくつかの短い話(タコの交尾、シミ抜き、昼ドラのあらすじ)を読ませ、言葉だけで、他人の頭の中に、正確な考えを作れることに、驚いてみせます(pp.15–16)。そのうえで、世間の常識をいくつか並べます。言語は人間最大の文化的発明であること、言語が思考を形づくること、子どもは大人を真似て話すこと、教育水準の低下で文法が乱れていること、などです。そして、こう言います。

Language is not a cultural artifact that we learn the way we learn to tell time or how the federal government works. Instead, it is a distinct piece of the biological makeup of our brains.

ToL訳 言語は、時計の読み方や連邦政府のしくみのように学ぶ、文化の産物ではない。そうではなく、脳の生物学的な構成の、独立した一部である。

クモの巣のたとえ

「本能」という語の意味を、ピンカーは、クモの巣で説明します(p.18)。

ピンカーは、**「ウェブ(巣)と言葉には、もちろん違いがある」**と断ったうえで、言語を、この見方で捉えると、現象がうまく整理できる、と読者に勧めます。

この見方は、「言語は人間の特別な能力だが、生物学から切り離す理由にはならない」という含みを持ちます。ピンカーは、コウモリのドップラー・ソナーや、渡り鳥の星座航法を例に、動物界には、その種に固有の驚くべき能力がいくらでもある、と述べます(p.19)。

ダーウィンの1871年の観察

ピンカーによれば、言語を一種の本能と見る考えを、最初に述べたのは、ダーウィン自身です(『人間の由来』、1871年。p.19)。ダーウィンは、言語は、パン作りや醸造のような「技芸」とは違う、と言います。子どもの喃語を見れば、人間には、話そうとする本能的な傾向がある。一方、醸造や、パン焼き、書字への本能的な傾向を持つ子どもはいない、と(p.20)。

また、ピンカーは、本能が、人を「機械仕掛けの自動人形」にする、と考える人に、ウィリアム・ジェームズの議論を示します。人間は、動物が持つ本能に加えて、さらに多くの本能を持つ。そのせめぎ合いが、柔軟な知能を生む。ゆえに、本能であるという事実が、いちばん見えにくい、というのです(p.20)。

「普遍性」の議論

第2章は、ニューギニア高地の「最初の接触」の話から始まります。1930年、オーストラリア人の探鉱者マイケル・リーヒーは、外界から約4万年孤立していた、約百万人の高地住民に出会いました。彼らの「ぺちゃくちゃ」(jabbering)は、まぎれもない言語で、のちに、同じ高地で、800もの異なる言語が見つかることになります(pp.25–26)。

ここから、ピンカーは、次の事実を取り上げます。

具体例として、タンザニアのキリマンジャロ山麓の言語キヴンジョの、応用形(applicative)が出てきます。英語の与格(“She baked me a brownie”)に当たる構文ですが、キヴンジョでは、動詞が、7つの接頭辞・接尾辞、2つの法、14の時制、そして16の「性」を持つ名詞と、一致します(p.27)。ここで言う「性」は、人間・動物・拡張された物・身体部位といった、種類の区分で、男女の区別ではありません。

さらに、ピンカーは、労働者階級や、教育の少ない人々の話し言葉が、「単純」「粗野」だという思い込みを、「効果的な錯覚」だと退けます。言語学者ラボフの研究を引き、アメリカの黒人英語(BEV)が、標準英語と同じように、規則に従った、複雑な方言であることを示します(pp.28–31)。たとえば、BEVの「be」の省略は、標準英語の短縮規則とほとんど同じ規則に従っており、でたらめな怠慢ではなく、体系的な規則だ、と言います(p.30)。

ピンカー自身が認める弱点

ここが、この章の、いちばん大事なところです。ピンカーは、複雑な言語が普遍的だという発見は、多くの人にとって、言語が生得的だという説得力ある証拠に見えるが、「冷徹な懐疑論者」にとっては、証拠にならない、と書きます(p.31)。

哲学者パトナムの反論は、こうです。

ピンカーは、これに、正面から反論はしません。「言語が普遍的だ」ということから、「言語本能がある」ことは、導けない、と認めます。そして、論証の本体は、「子どもが、世代ごとに、言語を実際に作り直している」という事実にある、と宣言します(p.32)。

まとめ

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