この記事で分かること
- 「言語は、一般的な知能の働きの一部だ」という見方は、何を予測するか
- ブローカ失語、特異的言語障害(SLI)、ウィリアムズ症候群は、それぞれ何を示すか
- この議論が、どこまで強く、どこに留保がつくか
先に結論です。 もし、言語が、一般的な賢さの一部なら、脳が傷つけば、言語も含めて、全体的に知能が下がるはずです。ところが、ピンカーが紹介する症例は、その予測に、合いません。知能は保たれているのに、文法だけが壊れる人(ブローカ失語、SLI)がいる。逆に、知能は大きく損なわれているのに、言語は流暢な人(ウィリアムズ症候群、デニーズ)がいる。この「二重の乖離」が、言語に特化した仕組みが脳にあることを示唆する、というのが、ピンカーの議論です。
論理:二つの乖離
ピンカーは、議論の筋を、こう立てます(pp.45–46)。
If, on the other hand, language is just the exercise of human smarts, we might expect that injuries and impairments would make people stupider across the board, including their language.
ToL訳 一方、もし言語が人間の賢さを働かせることにすぎないなら、傷害や障害は、言語も含めて、人を全面的により愚かにすると予想できるだろう。
そして、同書の言い方を借りれば、確認すべきは、言語が壊れ、他が無事な場合と、その逆の言語が無事で、他が壊れた場合、の両方です(pp.45–46、50)。ピンカーは、1994年の時点で、「言語の器官も、文法の遺伝子も、まだ誰も特定していない」と、はっきり認めたうえで、探索は進行中だ、と述べます(p.46)。
1. ブローカ失語:知能は保たれ、文法が壊れる(pp.46–48)
左脳の前頭葉の下部の損傷(脳卒中や銃創など)で、ブローカ失語と呼ばれる症状が出ます。ピンカーは、二つの例を挙げます。
- 後に回復した人の手記。ある朝、右腕がしびれ、床に倒れ、妻に声をかけても声が出なかった。完全に意識は明晰で、自分が何を言いたいかは分かっているのに、言葉が「間違っていて、言いたいことではない」と感じた(p.46)。
- 沿岸警備隊の無線技師だった、フォード氏(39歳で脳卒中)。神経心理学者のガードナーが、3か月後に面接した。彼の話し方は、遅くて、ひどく苦しそうで、文は、「Speech… can’t say… talk, you see」のような、断片になった(pp.46–47)。
フォード氏の問題は、発声器官を動かす力にはなかったと、ピンカーは言います。ろうそくを吹き消す、喉を鳴らすことは、できた。書いても、話すのと同様に、障害があった。障害の大半は、文法そのものに集中していました(p.47)。
- 「-ed」「-s」のような語尾、or、be、the のような機能語を省く。
- 声に出して読むとき、機能語は飛ばし、内容語は読める。
- 「石は水に浮かぶか」のような、内容語から意味が推測できる質問は理解するが、「ライオンはトラに殺された。どちらが死んだか」のような、文法分析を要する質問は理解できない。
それでも、ガードナーは、フォード氏について、こう書いています。注意深く、周囲に気づき、自分がどこにいて、なぜそこにいるかを、はっきり分かっていた。言語に密接に結びつかない知的機能(左右の知識、地図、時計、計算、命令の実行)は、保たれていた。非言語性の知能指数は、平均より高い範囲(pp.47–48)。
2. 特異的言語障害(SLI):遺伝するかもしれない文法の障害(pp.48–50)
大人の脳損傷だけでなく、健康な子どもが、言語だけ、発達が遅れる場合もあります。精神遅滞、聴覚障害、自閉症などの、明らかな原因を除くと、診断名は「特異的言語障害(SLI)」になります(p.48)。
ピンカーが詳しく述べるのは、イギリスの「K家」の事例です。言語学者ゴプニクらが研究しました。
- 祖母は、言語に障害があった。5人の成人した子どものうち、1人だけ、言語的に正常。ほかの4人も、障害があった。この4人の23人の子どものうち、11人が障害を持ち、12人は正常だった(p.48)。
- 障害のある子どもは、家族、性別、生まれた順に関係なく、ランダムに分布していた(p.48)。
- 環境が原因なら(栄養不良、障害のある親のそばで育つ、など)、なぜ、一部の兄弟姉妹だけに現れ、同年齢の(二卵性の)双子の一方に、現れないことがあるのか。ゴプニクらと共同した遺伝学者たちは、系図が、一つの優性遺伝子に支配される形質を示す、と指摘した(p.49)。
この症候群の人たちは、全体の知能が損なわれていません。非言語性の知能検査では、正常範囲の得点を取る人が多く、血縁のない、同じ症候群の子の一人は、一般クラスの数学で、最高の成績を取った、とも書かれています(p.49)。
彼らの問題は、言語にあります。会話は、外国で苦労する旅行者のように、ゆっくり、慎重で、完全な文を言ってくれるよう周囲に助けを求める。話の中に、代名詞や、複数形、過去形の語尾などの、文法の誤りが頻発します(p.49)。例は、The boys eat four cookie.(複数形の欠落)、Carol is cry in the church.(動詞の形の誤り)のようなものです。
実験では、ウグ・テスト(wug test)が、特徴的な課題として登場します。鳥のような絵を見せて「これはウグ」と言い、2羽の絵を見せて、「ウグが2羽。ここに2羽の__がいる」と言わせる。ふつうの4歳児は、「wugs」と、すぐ答える。しかし、SLIの成人の一人は、「ウグ…ウグネス、でしょ? いや。…ペアに…」と、混乱しました。次の動物 zat には、「Za… ka… za… zackle」と答え、次の sas には、「sasses」と推論し、成功に気をよくして、zoop を「zoop-es」、tob を「tob-ye-es」と、過剰に一般化してしまった(pp.49–50)。ピンカーは、この遺伝子が、普通の子どもが無意識に身につける規則の発達を、どうにか妨げ、大人たちは、意識的に推論することで補おうとするが、結果は不器用になる、と解釈しています(p.50)。
ウグ・テストは、子どもが、親の模倣で言語を覚えるのでないことの、古典的な実演でもあります。誰も「wug」の複数形を、聞いたことがないからです(p.49)。
3. 逆の乖離:知能が低いのに、言語が流暢(pp.50–54)
ブローカ失語やSLIは、言語だけが壊れる場合でした。しかし、これだけでは、「言語は、知能の他の問題より、脳に重い負荷をかけるだけだ」という解釈が残ります(p.50)。決め手は、逆の乖離、つまり、言語は良好で、認知が悪い人です。
デニーズ(14歳)。 心理言語学者クローマーと交わした会話の記録が、ピンカーによって紹介されます。デニーズは、銀行の通帳を、なくした話を、洗練した英国風の話し方で、流暢に話します。ところが、実際には、彼女には、銀行口座も、ボーイフレンドもない。彼女は、スコットランドへ行ったこともない。重度の知的障害があり、読み書きも、お金の扱いも、できない(pp.50–51)。彼女は、二分脊椎で生まれ、水頭症を併発しました。このような子どもが、重い知的障害を持ちながら、言語は損なわれず、むしろ過剰に発達することがある、とピンカーは言います(p.51)。この症状は、「カクテル・パーティー・おしゃべり」「おしゃべり症候群」とも呼ばれる、と(p.52)。
ウィリアムズ症候群(クリスタル)。 医学者ベルージらが研究した、ウィリアムズ症候群は、まれな知的障害で、11番染色体の、カルシウム調節に関わる遺伝子の異常が関係すると見られる、とピンカーは述べます。子どもは、小柄、細い顔、広い額、星形の虹彩模様を持ち、「妖精のような」顔つきと言われます。IQ は約50で、靴ひもを結ぶ、道を探す、食器棚から物を取る、足し算をする、自転車の絵を描くといった課題が苦手です。それでも、会話は、流暢です(p.52)。18歳のクリスタルが語る象の話には、複雑な文が含まれていました(pp.52–53)。
ピンカーは、実験でも、この子どもたちが、複雑な文を理解し、文法の誤りを直し、珍しい語を好む傾向がある、と述べます。ふつうの子に、ペットの名前を挙げさせると、犬、猫、馬、牛、豚。ウィリアムズ症候群の子に聞くと、一角獣、翼竜、ヤク、アイベックス、水牛、海のライオン、剣歯虎などが並ぶ(p.53)。
ピンカーの結論
ピンカーは、これまでに登場した人々を、**「言語使用者の野外図鑑」**にたとえます。ニューギニア高地の住民、ハワイの農園の人々、ニカラグアの子どもたち、サイモン、サラ、フォード氏、K家、デニーズ、クリスタル。彼らは、複雑な文法が、人間の生息環境の全域で見られることを示している、と。
- 石器時代を出ていなくてもよい。
- 中流階級でなくてもよい。
- 学校の成績がよくなくてもよい。
- 学校に上がる年齢でなくてもよい。
- 親が、言語を、手ほどきしたり、使いこなせなくてもよい。
- 社会で機能する知的能力がなくてもよい。
- しかし、適切な遺伝子と、適切な脳の部位がなければ、言語を使いこなせない(pp.53–54)。
読むうえで:どこまで言えるか
- この議論は、二重の乖離があるから強い、という構造ですが、「完全に独立」と言い切れるかは、別の問題です。実際の症例は、境界がもっと曖昧であることが、のちの研究では指摘されています(これは ToL の一般的な補足で、この特集では扱っていません)。
- K家の遺伝子については、本書の1994年時点では、原因遺伝子は不明でした。その後の研究で、K家(KE家と呼ばれる)の障害に、特定の遺伝子(FOXP2)の変異が関わることが示されました。ただし、これは「文法の遺伝子」とは言えない、という慎重な見方が一般的です。(これも ToL の補足で、本書の範囲外です。詳しくは、専門の文献で確かめてください。)
- 症例の細部は、本書の記述に従い、原論文は確認していません。
まとめ
- 言語が、一般的な知能の一部なら、傷害は全面的な低下を生むはず。
- ところが、知能が保たれて文法だけが壊れる(ブローカ失語、SLI)人と、知能が低くても言語が流暢な(デニーズ、ウィリアムズ症候群)人がいる。
- ここから、言語には、脳と遺伝子に、専用の基盤がある、とピンカーは論じる。