この記事で分かること

先に結論です。 言葉のあいだの関係には、二種類あります。実際に並んでいる語どうしの関係(連辞関係、syntagmatique)と、その場にいない語が頭の中で呼び出される関係(連合関係、associatif)です。ソシュールは、前者を「in praesentia(その場にある)」、後者を「in absentia(その場にない)」と言い分けました。

引用は1916年のフランス語原典(第2部 第5章 §1)から。日本語訳は ToL によります。

原文を読む

この章の直前までで、ソシュールは、言語の状態では「すべてが関係の上に成り立つ」と述べています(価値と差異の記事で扱いました)。では、その関係は、どう働くのか。まず、並んでいる関係です。

D’une part, dans le discours, les mots contractent entre eux, en vertu de leur enchaînement, des rapports fondés sur le caractère linéaire de la langue, qui exclut la possibilité de prononcer deux éléments à la fois (voir p. 103). Ceux-ci se rangent les uns à la suite des autres sur la chaîne de la parole. Ces combinaisons qui ont pour support l’étendue peuvent être appelées syntagmes. Le syntagme se compose donc toujours de deux ou plusieurs unités consécutives (par exemple : re-lire ; contre tous ; la vie humaine ; Dieu est bon ; s’il fait beau temps, nous sortirons, etc.). Placé dans un syntagme, un terme n’acquiert sa valeur que parce qu’il est opposé à ce qui précède ou ce qui suit, ou à tous les deux.

ToL訳 一方で、ディスクール(話された連なり)の中では、語どうしは、その連なりの力で、互いに関係を結ぶ。この関係は、言語の線的な性格に基づく。線的な性格は、二つの要素を同時に発音する可能性を排除する(原書103頁参照)。語は、発話の連鎖の上に、次々に並ぶ。広がりを支えとするこの組み合わせを、連辞(syntagme)と呼ぶことができる。したがって、連辞は、必ず、連続する二つ以上の単位から成る(たとえば、re-lire〔読み直す〕、contre tous〔みんなに反対して〕、la vie humaine〔人間の生活〕、Dieu est bon〔神は善い〕、s’il fait beau temps, nous sortirons〔天気がよければ出かけよう〕など)。連辞の中に置かれた項は、前にあるもの、後にあるもの、あるいはその両方と対立することによってはじめて、価値を得る。

次に、並んでいない関係です。

D’autre part, en dehors du discours, les mots offrant quelque chose de commun s’associent dans la mémoire, et il se forme ainsi des groupes au sein desquels régnent des rapports très divers. Ainsi le mot enseignement fera surgir inconsciemment devant l’esprit une foule d’autres mots (enseigner, renseigner, etc., ou bien armement, changement, etc., ou bien éducation, apprentissage) ; par un côté ou un autre, tous ont quelque chose de commun entre eux.

ToL訳 他方、ディスクールの外では、何か共通点のある語が、記憶の中で連合し、そうしてグループができる。その中には、きわめて多様な関係が成り立っている。たとえば、enseignement〔教育・教え〕という語は、知らず知らずのうちに、心の前に、他の多くの語を浮かび上がらせる(enseigner〔教える〕、renseigner〔情報を与える〕など、あるいは armement〔武装〕、changement〔変化〕など、あるいは éducation〔教育〕、apprentissage〔学習〕)。どこかの面で、どれも互いに共通点を持っている。

最後に、二つの対比です。

Le rapport syntagmatique est in praesentia ; il repose sur deux ou plusieurs termes également présents dans une série effective. Au contraire le rapport associatif unit des termes in absentia dans une série mnémonique virtuelle.

ToL訳 連辞関係は「その場にある」関係で、現実の連なりの中に、等しく現前する二つ以上の項に基づく。これに対して、連合関係は、「その場にない」項どうしを、記憶の中の仮想の系列において結びつける。

解説1:「並ぶ関係」を日本語で見る

連辞関係の基本は、「同時には言えないので、順に並ぶ」ことです。この記事の前の記事で見た、線条性(音は一列にしか並ばない)が、そのまま土台になっています。

原文の例は、re-lire(読み直す)のような語の内部から、文まで、あらゆる大きさに及びます。日本語なら、次のようになります。

ソシュールが、この関係について強調するのは、語の価値が、並びの中で決まることです。「前にあるもの、後にあるものとの対立によって、価値を得る」と述べています。たとえば、「読む」という動詞は、「学生が本を」のあとに来ることで、「学生が読むのは本だ」という役割が決まります。

解説2:「思い浮かぶ関係」を日本語で見る

連合関係の基本は、「頭の中で、同じ仲間として呼び出される」ことです。原文の enseignement の例では、三種類の仲間が出てきます(ToL による整理)。

仲間の種類原文の例共通点
語幹が同じenseigner, renseigner「教える」の語幹を共有
語尾(接尾辞)が同じarmement, changement-ment という形を共有
意味が近いéducation, apprentissage意味領域を共有

日本語で、「教える」から呼び出される仲間は、次のように分けられます。

こうした仲間は、文には現れません。「先生が教える」と言ったとき、「指導する」も「教わる」も、その場にはいない。けれど、頭の中では、それらが背景として働き、「教える」という語の価値を決めています。

解説3:見分けるテスト

迷ったときは、次のように問います。

問い連辞関係連合関係
二つは、同じ文に現れうるか現れる(隣り合う)現れない(どちらか一つを選ぶ)
どこにある関係か発話の連鎖の中記憶の中
表す方向横(並べ方)縦(入れ替えの候補)

文を、次のように、縦横の表で書くと分かりやすくなります。

横:連辞関係 →
縦:連合関係 ↓学生が本を読む
先生が手紙を書く
子どもが絵を描く

横に並んだ語は、互いに隣り合う関係(連辞)。縦に並んだ語は、同じ位置に入れ替えて使える関係(連合)です。この縦横の見方は、後の言語学で、横を「連辞的」(syntagmatic)、縦を「範列的」(paradigmatic、パラディグマティック)と呼ぶ形で受け継がれました。(これは ToL による補足で、『講義』のこの箇所の用語は「連合関係」です。)

解説4:柱のたとえ

ソシュールは、この二つを、建物の柱に例えます(原文の続き)。柱は、一方で、自分が支える梁(アーキトレーブ)との関係にある。これは、空間の中で、二つが同時に存在する関係で、連辞関係に当たる。他方、その柱がドーリア式なら、イオニア式やコリント式といった、この場にない他の様式を心の中で比べる。これは連合関係に当たる、というのです。

日本語でも同じです。「赤い花」と言ったとき、「赤い」は、隣の「花」と並んでいます(連辞)。と同時に、「青い」「白い」「黄色い」といった、その場にない色の語と、無意識に比べられています(連合)。「赤い」の意味は、こうした仲間との差でも決まります。

解説5:文は「パロール」ではないのか

ソシュールは、この先で、重要な反論を考えます。文は、並びの典型だが、文は「パロール(個人の発話)」に属するはずだ。ならば、連辞は、パロールのものではないか。

彼の答えは、**「そうとは限らない」**です。パロールの特徴は、組み合わせの自由さ。ところが、連辞の中には、自由でないものが多い、と指摘します。

そして、両者のあいだに、はっきりした境界はないと、ソシュールは認めます。多くの場合、社会の習慣と個人の自由が、割合を決められないほど混ざって、ひとつの組み合わせを作っているからです。

まとめ

次に読む