この記事で分かること

先に結論です。 ソシュールにとって、言語記号とは「物」と「名前」を結ぶものではありません。頭の中の「概念」と、頭の中の「音のイメージ」を結ぶ、二面の心的な単位です。このうち概念の側を signifié(シニフィエ、意味されるもの)、音のイメージの側を signifiant(シニフィアン、意味するもの)、両方を合わせた全体を signe(記号) と呼ぼう、というのが提案です。

この区別は、『一般言語学講義』(以下『講義』)の第1部第1章の冒頭近くにあります。この記事は、その部分を原文で読み、ひとつずつ噛み砕きます。恣意性(記号と意味の結びつきに必然性がないこと)の話は別の記事で扱うので、ここでは「記号とは何から成るか」だけに絞ります。

引用は1916年のフランス語原典(第1部 第1章 §1)から。日本語訳は ToL によります。

原文を読む

直前の段落でソシュールは、「言語とは名前のリストだ」という素朴な見方を取り上げ、それが不十分な理由を挙げています。そのうえで、次のように定義します。

Le signe linguistique unit non une chose et un nom, mais un concept et une image acoustique. Cette dernière n’est pas le son matériel, chose purement physique, mais l’empreinte psychique de ce son, la représentation que nous en donne le témoignage de nos sens ; elle est sensorielle, et s’il nous arrive de l’appeler « matérielle », c’est seulement dans ce sens et par opposition à l’autre terme de l’association, le concept, généralement plus abstrait.

ToL訳 言語記号が結びつけるのは、物と名前ではなく、概念と音のイメージ(image acoustique)である。後者は、物理的なだけの「物質としての音」ではない。その音が心に残す刻印、つまり感覚が私たちに与えてくれる表象である。それは感覚的なものであり、もしそれを「物質的」と呼ぶことがあるとすれば、連合のもう一方の項、つまり、一般にもっと抽象的な概念との対比においてだけである。

少し先で、用語の整理が続きます。

L’ambiguïté disparaîtrait si l’on désignait les trois notions ici en présence par des noms qui s’appellent les uns les autres tout en s’opposant. Nous proposons de conserver le mot signe pour désigner le total, et de remplacer concept et image acoustique respectivement par signifié et signifiant ; ces derniers termes ont l’avantage de marquer l’opposition qui les sépare soit entre eux, soit du total dont ils font partie. Quant à signe, si nous nous en contentons, c’est que nous ne savons par quoi le remplacer, la langue usuelle n’en suggérant aucun autre.

ToL訳 ここにある三つの概念を、互いに呼び合いながらも対立している名前で呼べば、曖昧さは消えるだろう。私たちは、全体を指すのに「記号」(signe)という語を残し、概念と音のイメージを、それぞれ「シニフィエ」(signifié)と「シニフィアン」(signifiant)に置き換えることを提案する。この二語には、両者を互いに分け、かつ両者が属する全体からも分けるという対立をはっきり示せる利点がある。「記号」については、これで我慢するのは、ほかに置き換える語を知らず、日常語も別の語を示してくれないからである。

解説1:なぜ「物と名前」ではだめなのか

ソシュールは、定義の直前に、「言語とは、物に名前を割り当てたリストだ」という素朴な見方を検討しています。そして、この見方を「多くの点で批判できる」と言います。要点は三つです。

  1. 物より先に考えがあることになってしまう。 名前を貼る対象としての「物」や「考え」が、言葉より前に出来上がっていることが前提になる。
  2. 名前が音なのか、心的なものなのかが、はっきりしない。
  3. 名前と物の結びつきを、ごく単純な作業のように見せてしまう。

それでも彼は、この素朴な見方にも利点を認めます。「言語の単位が、二つの項を近づけてできた、二重のものだ」と示しているからです。そこで、二つの項を「物」と「名前」から、「概念」と「音のイメージ」へ置き換える。これが引用の趣旨です。

つまり、ソシュールは、「言葉は二つのものの結びつきだ」という考えは残したまま、結びつく二つを、どちらも心の中のものに取り替えたのです。

解説2:「音のイメージ」は、口から出る音ではない

初めて読んだ人が、いちばんつまずくのは「音のイメージ」でしょう。引用にあるとおり、これは物理的な音ではなく、その音が心に残す刻印です。

この点について、ソシュールは、自分自身で確かめられる例を挙げています。唇も舌も動かさなくても、私たちは自分に話しかけたり、詩を頭の中で暗唱したりできる。だから、語は私たちにとって「音のイメージ」なのだ、と言うのです。

日本語でやってみましょう。

ソシュールは、ここから用語の注意も導きます。語を構成する単位を「音素」(phonème)と呼ぶと、発音する行為を連想させてしまうので、語の内部については「音」や「音節」と言うほうがよい、というのです。「音素」は、実際に話された語(パロール)にだけ適した言葉だ、と彼は考えています。(『講義』の後の議論や、現代の音韻論での「音素」の用法とは、意味合いが異なります。ここは、この箇所の議論に限った話です。)

解説3:signifiant と signifié、日本語ではどう使うか

引用の二つ目の段落を、表にまとめます。

用語以前の呼び方中身日本語の例(「木」)
signifiant(シニフィアン)音のイメージ意味する側。感覚的「き」という音のイメージ
signifié(シニフィエ)概念意味される側〈幹があり、枝葉の茂る植物〉という概念
signe(記号)両者の結合全体「木」という語そのもの

名前をつけ直した理由は、本文に書かれています。「記号」という語が、日常では音の部分だけを指して使われがちだったからです。語(たとえば arbor)が記号と呼ばれるのは、それが「木」という概念を担っているからで、感覚的な部分だけを取り出して「記号」と呼ぶと、全体の考えが抜け落ちてしまう。そこで、「全体」と「部分」を別々の語で呼び、その上、部分どうしが対立していることも、語の形から分かるようにしたい、というのです。

signifiant/signifié は、ともに動詞 signifier(意味する)に由来し、一方は「意味するもの」、他方は「意味されるもの」という対になります。名前そのものが、二つの項の関係を示しているのです。

解説4:つまずきやすい三つの点

① シニフィエは「物」ではなく「概念」。 「犬」という語のシニフィエは、目の前の特定の犬ではなく、〈犬〉という概念です。ソシュールは、この引用で「物と名前」ではなく「概念と音のイメージ」と明言しています。たとえば「ユニコーン」という語は、現実に指す物がなくても、概念と音のイメージの結びつきとして成り立ちます。(この例は ToL による補足です。)

② 二つは「分けて数えられる」が、「切り離せない」。 引用の周辺では、二つの要素が「緊密に結びついていて、互いを呼び合う」と述べられています。ある語の意味を探すときも、ある概念を表す語を探すときも、その言語が認めた組み合わせだけが、現実に合っているように感じられる、というのです。音だけ、意味だけを、単独で記号と呼ぶことはできません。

③ シニフィアンは、ただの「音」ではなく、文字でもない。 『講義』のこの段階で言うシニフィアンは、あくまで音のイメージです。文字は、別の記号体系だと、ソシュールは第6章で論じます(文字と言葉の関係を扱う記事で読みます)。

日本語で試す:同音語と同義語

この定義が実際に役立つのは、同じ音に別の意味が結びつく場合と、別の音に同じような意味が結びつく場合の整理です。

「同じ語なのか、別の語なのか」という日常の疑問は、シニフィアンが同じか、シニフィエが同じか、結びつきが同じか、の三つに分けて考えると、整理しやすくなります。

まとめ

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