『講義』の概要やさしい解説では、記号の恣意性に一度触れた。ここを一点集中で読む——ソシュールが「第一原理」と呼んだ考えを、1916年フランス語原典から。

1. 記号は「物と名前」ではない

まず、素朴な図式を壊す。ソシュールいわく、言語記号は「物と名前(une chose et un nom)」を結ぶのではなく、「概念聴覚イメージun concept et une image acoustique)」を結ぶ(第1部 第1章。フランス語引用の日本語は L/LAB 訳。以下同じ)。「聴覚イメージ」は物理的な音ではなく、その音の心的な刻印だ。ソシュールはこの二面を、のちにシニフィエ(signifié/概念)シニフィアン(signifiant/聴覚イメージ) と呼び分ける。記号は、この二つが結びついた全体である。

2. 第一原理——恣意性

概念「木」 treeBaumarbre木(き) 同じ概念に、どの音の列が結びついても「同じくらい正しい」。だから言語は多様でありうる。
一つの概念に、言語ごとに別々の音が結びつく。シニフィアンとシニフィエのあいだに必然のつながりはない。図:L/LAB

Le lien unissant le signifiant au signifié est arbitraire … le signe linguistique est arbitraire.

シニフィアンとシニフィエを結ぶ絆は恣意的である。……言語記号は恣意的である。(第1部 第1章)

証拠は言語の多様性そのものだ。

le signifié « bœuf » a pour signifiant b—ö—f d’un côté de la frontière, et o—k—s (Ochs) de l’autre.

シニフィエ「牛」は、国境のこちら側では b—ö—f を、あちら側では o—k—s(Ochs)をシニフィアンとして持つ。(第1部 第1章)

3. 恣意 = 気まぐれ、ではない

「恣意的」は「話す人が自由に選べる」という意味ではない。ソシュールが言うのは「無契的(immotivé)」——シニフィアンとシニフィエのあいだに、理由がない、ということだ。個人がある記号を勝手に別の音に変えることはできない。記号は共同体によって、一人ひとりに課されている

だからこそ、記号については議論の余地がない、ともソシュールは言う。恣意的な記号の体系である言語には、議論の土台がない——「sœur を sister より、Ochs を bœuf より好む理由は何もない(il n’y a aucun motif de préférer sœur à sister, Ochs à bœuf)」(第1部 第2章)。

4. 擬声語・感嘆詞は反例か

「では鳥の鳴き声を写した語(cuckoo)はどうか」。ソシュールの答えは、そうした語は少数で、しかも各言語が自分の音体系に合わせて慣習化している、というものだ。犬の鳴き声はフランス語で ouaoua、ドイツ語で wauwau。時計の音は tic-tactick-tack。しかも由来が擬声的な語(フランス語 pigeon < 俗ラテン語 pipio)も、いまや誰もそう感じない。

これは、サピアが1921年に絵画のたとえで言ったのとまったく同じ論点だ——擬声語は自然の直接の産物ではなく、それぞれの言語伝統が作った文化的な創作である。

5. 相対的な恣意性

完全に無契的 相対的に有契的 vingt(20) dix-neuf(19) poirier(梨の木) dix-neuf は dix・neuf を、poirier は poire・-ier(cerisier…)を「呼び起こす」=部分的に動機づけられる
恣意性には度合いがある。単純語 vingt は完全に無契的だが、dix-neuf や poirier は構成要素と連合関係によって部分的に動機づけられている。図:L/LAB

ソシュールいわく、「vingt(20)は無契的だが、dix-neuf(19)は同じ程度には無契的でない」——なぜなら dix-neuf は、それを構成する語や連合する語(dix, neuf, vingt-neuf, dix-huit…)を「呼び起こす(il évoque les termes dont il se compose)」からだ。dix-neuf は「相対的な動機づけ(motivation relative)」の一例である(第2部 第6章)。

英語も同じだ。複数の shipsflags, birds, books… の系列を呼び起こす(相対的に有契的)が、mensheep は何も呼び起こさない(無契的)。「絶対的な恣意性」と「相対的な恣意性」のあいだで、言語ごとに比重が違う——これがのちの類型論の一つの軸になる。

6. なぜ変えられず、それでも変わるのか

恣意性は「理論上は記号を変えられる」ことを含意する。だが実際には、恣意性こそが記号を変更から守る。議論する土台がないうえ、記号は無数にあり、体系は複雑すぎ、共同体は惰性で動く。「言語は、いついかなるときも、みんなの問題である」。

ところが——

Le temps, qui assure la continuité de la langue, a un autre effet, en apparence contradictoire au premier : celui d’altérer plus ou moins rapidement les signes linguistiques.

言語の連続性を保証する時間は、一見それと矛盾するもう一つの効果を持つ。言語記号を、多かれ少なかれ速く変質させるという効果だ。(第1部 第2章)

そして変質とは、多くの場合「シニフィアンとシニフィエの関係のずれ」である。記号は不変であると同時に可変だ——この二重性が、次の主題につながる。


次は、共時態と通時態——言語を「今」の体系として見るか、時間の流れとして見るか。サピアの「ドリフト」と対にして読む。