九人の学者のうち、文の仕組みを扱ったのは、大槻文彦、山田孝雄、橋本進吉、松下大三郎の四人である。この四人は、文を、どういう単位で切るか、そして何を説明したいかが、それぞれ違う。同じ一文を、四つの見方で眺めてみる。(全体の年表)

なお、以下の「花が咲く」への当てはめは、各特集で確かめた考え方を、こちらで並べたものである。四人自身が、この文を分析したわけではない。

四人の見方

学者主著単位・道具説明したいこと
大槻文彦『言海』(1889–1891)品詞(語を品詞に分ける)辞書のなかで、語をどう分類し、どう説明するか
山田孝雄『日本文法論』(1908)陳述、係り結び文が、なぜ「完結したまとまり」になるのか
橋本進吉『新文典別記』(1935)文節(発音の切れ目)耳で確かめられる区切り方で、文を切る
松下大三郎『標準日本文法』(1924)詞と原辞(部品)「を」「に」「たり」は単語なのか

大槻文彦——辞書に品詞をつける

大槻の『言海』は、五十音順、発音、品詞、日本語による語釈を組み合わせる、辞書の型を作った。品詞分類は、その骨格の一つである(大槻文彦の特集)。

「花が咲く」なら、辞書は、「花」「咲く」といった語を引く人に、その語が何の品詞で、どう使うかを知らせる。文の仕組みを論じる前に、語を分類するという道具が、ここで整えられた。

山田孝雄——文はなぜ「完結」するのか

山田の『日本文法論』は、江戸から明治までのほぼ全ての文法家を名指しで検討したうえで、自説を語る(山田孝雄の特集)。中核は、陳述論(文の完結性)と、係り結び論(呼応の仕組み)である。

山田は、「花が咲く」と「花が咲くか」の違いはどこから来るのか、と問う。文は、最後まで言われないと完結しない、という洞察が、判定記事では「今も残る」とされる。一方、その仕組みを、ドイツ心理学の「統覚作用」で説明する部分は、後の研究者によって、書き換えられてきた。

橋本進吉——耳で切る「文節」

橋本は、声に出して切れる所で文を区切る。「花が 咲く」は、二つの文節に切れる(橋本進吉の特集)。

この文節は、判定記事では、「教室の道具として残る」とされる。発音の切れ目に基づく、耳で確かめられる区切り方だからである。ただし、研究の現場では、語や句など、ほかの単位と使い分けられ、万能ではない。

松下大三郎——「を」「に」は単語なのか

松下は、学校で習う文法とは違う出発点に立つ。言語を、断句(話の単位)、念詞(詞)、原辞(詞の部品)の三つの階段に分け、「が」のような助詞や、助動詞は、単語ではなく、詞の部品だと言う(松下大三郎の特集)。

松下の見方で「花が咲く」を見ると、「花が」と「咲く」が、それぞれ一つの詞になる。「が」は、部品である。松下の五品詞は、助詞・助動詞を品詞から外すが、これは学校文法には採られなかった。ただし、「それだけでは自立しない」という観察は、学校文法も共有している。

例文:花が咲く 橋本の文節 花が 咲く 耳で切れる所で切る 松下の詞と原辞 花 が 咲く 破線=詞 黒=中心 白=部品(原辞) 山田の陳述 文末が、文を完結させる 大槻の品詞 花=名詞 咲く=動詞(辞書で、語を分類して説明する) 図:ToL(各特集で確かめた考え方を並べたもの。四人自身の分析ではない)
同じ一文を、四つの見方で見る。図:ToL

四つは、対立するのか

四人の見方は、対立しているというより、答えようとしている問いが違う。

ただし、橋本の文節と、松下の詞は、一見、似ている。だが、松下の詞は、「自分だけの力で一つの観念を表すか」という基準で決められており、橋本の文節は、発音の切れ目である。同じ単位とは言えない。この違いは、松下の特集でも、注意として書いた点である。

今の扱い(一般的な整理)

学者今の扱い
大槻辞書の骨格(品詞・語釈の組み合わせ)は今も生きる
山田「陳述」の洞察は残る。説明の理論は書き換えられた
橋本文節は教室の道具として残る。万能ではない
松下「形式名詞」の用語は残る。助詞・助動詞を品詞から外す考え方は、学校文法には採られなかった

まとめ

論点内容
四人の問い語の分類(大槻)/文の完結(山田)/文の切り方(橋本)/単語とは何か(松下)
例文への当てはめ文節は「花が/咲く」。松下の詞も「花が」「咲く」だが、「が」は部品
共通点助詞・助動詞は「それだけでは自立しない」という観察は、学校文法も松下も共有
注意文節と松下の詞は、似ていても、同じ単位ではない

一言でいえば——文法の筋では、同じ日本語の文を、語を分類する眼、完結を問う眼、耳で切る眼、部品に分ける眼という、四つの眼が、別々の問いに答えようとしていた。