夏目漱石『こころ』は、日本の中学・高校の国語教科書に、もっとも繰り返し採録されてきた近代小説の一つである。以前の記事では、その第一文だけを、詳しく読んだ。この特集では、範囲を少し広げ、「上 先生と私」の冒頭、鎌倉の海岸で「私」が「先生」と出会う場面を教材に、日本語の基礎文法そのものを、7本の記事で学び直す。

なぜ、『こころ』なのか

『こころ』が、日本語学習の教材として、繰り返し選ばれてきたことには、理由がある。文体は、候文でも、擬古文でもなく、今日の読者にもそのまま通じる、確立された「だ・である」体で書かれている(漱石の文体そのものについては、この特集)。語彙も、極端に難解な漢語に偏らず、平易な部分と、格調高い部分とが、バランスよく混ざっている。そして何より、一人称の語り手が、目の前で起きた出来事を、順を追って語るという構造が、主語・助詞・動詞の活用といった、日本語の基礎的な仕組みを、実例で確かめるのに、ちょうどよい題材になっている。

鎌倉の浜辺で

この特集で読む場面は、こう始まる。

私はその人を常に先生と呼んでいた。……私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。

友人に誘われて鎌倉に来た「私」は、友人が急に帰京したあと、一人、海水浴場に残される。そして、ある日、海岸の掛茶屋で、「先生」と、その連れの西洋人を見かける。この、わずか数段落の場面のなかに、日本語の基礎文法の、主要な要素——は・が、修飾語の位置、動詞の活用、呼び方の使い分け——が、すべて詰まっている。

この特集の構成

記事内容
1(この記事)全体像
2は・が——主題と主語の違い
3呼び方が、人間関係を表す——名前を明かさない技法
4修飾語は前に、述語は最後に——日本語の語順
5動詞の活用とテ形——「呼んでいた」の仕組み
6精読:鎌倉の浜辺の一節を、文法要素で読み解く
7判定:『こころ』は、日本語学習の教材として、なぜ優れているか
は・が 主題と主語 呼び方 「先生」「その人」「彼」 語順 修飾語は前、述語は最後 動詞の活用 「呼んでいた」 鎌倉の浜辺の一節、わずか数段落に、日本語の基礎文法のほぼすべてが詰まっている 図:ToL(『こころ』上・一〜二の分析による)
この特集で扱う、日本語の基礎文法の四要素。図:ToL

パブリックドメインの原典

漱石は1916年に没しており、日本の著作権保護期間(没後70年)のもとで、すでにパブリックドメインである。この特集の引用は、青空文庫が公開する本文(底本:岩波文庫)に拠り、原文をそのまま引用する。

まとめ

論点内容
教材『こころ』上・一〜二、鎌倉の海岸で「私」が「先生」と出会う場面
選定理由確立された「だ・である」体、平易と格調のバランスの取れた語彙、一人称の順を追った語り
扱う文法は・が、呼び方、語順、動詞の活用とテ形
著作権漱石は1916年没。パブリックドメイン

一言でいえば——『こころ』の、たった数段落の一節は、日本語の基礎文法をひととおり学ぶための、優れた教材になっている。