以前の記事では、三島由紀夫『潮騒』の三文から、日本語の基礎的な語順——述語は最後、説明は名詞の前——を学んだ。この記事では、『こころ』の鎌倉の場面で、同じ原則を、より長く、より複雑な文で確かめる。
説明のかたまりが、名詞の前に来る
先生を見つける直前の場面に、こんな一文がある。
彼はやがて自分の傍を顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言二言何かいった。
「そこにこごんでいる」——「そこに」「こごんでいる」という、二つの要素からなる、ひとまとまりの説明が、「日本人」という名詞の、直前に置かれている。英語であれば、“a Japanese man who was crouching there”のように、名詞のあとに説明を続ける(関係節)のが自然だが、日本語では、説明のかたまりを、まるごと名詞の前に移動させるという、逆の語順を取る。
もう一つの例——「砂の上に落ちた手拭」
同じ段落に、もう一つ、似た構造の一文がある。
その日本人は砂の上に落ちた手拭を拾い上げているところであったが……
「砂の上に落ちた」——これも、「手拭」という名詞を修飾する、ひとまとまりの説明である。「どこに」「どうなった」という情報が、名詞の前に、そのまま置かれている。この構造は、全体像で見た、他の場面にも、繰り返し現れる。
海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので……
「海水着を持たない」という説明も、やはり、「私」という名詞(正確には代名詞)の前に置かれている。
原則——日本語は、名詞の前に説明を積む
これらの例から、一つの原則が見えてくる。日本語では、名詞を修飾する情報——それがどんなに長くても——は、必ず、その名詞の前に置かれる。
| 修飾する情報 | 修飾される名詞 |
|---|---|
| そこにこごんでいる | 日本人 |
| 砂の上に落ちた | 手拭 |
| 海水着を持たない | 私 |
英語や、多くのヨーロッパ言語では、こうした説明(関係節)は、名詞のあとに続く。日本語は、その逆——名詞の前に、説明を積み上げていく言語である。この違いは、日本語学習者にとって、もっとも基本的でありながら、もっとも慣れるまでに時間がかかる違いの一つである。
述語は、文の最後に
この「修飾語は前」という原則と対になっているのが、以前の記事でも確認した、「述語は文の最後」という原則である。海岸の場面から、長めの一文を見てみよう。
彼は我々の穿く猿股一つの外何物も肌に着けていなかった。
主語「彼は」から始まり、「我々の穿く猿股一つの外何物も」という、長い目的語部分を経て、ようやく文末で「肌に着けていなかった」という述語(動詞+否定+過去)にたどり着く。文の意味を決定づける、もっとも重要な情報(何をしたか、どうだったか)が、文の一番最後に置かれる——これも、日本語の語順の、基本的な性質である。
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、この「修飾語は前、述語は最後」という原則は、日本語の基本的な傾向であり、倒置などの例外的な表現も存在する。 この記事は、あくまで、標準的な語順を確認している。
第二に、三島由紀夫『潮騒』の三文で学ぶ記事と、この記事は、同じ原則を、異なる作品の異なる例文で確認したものであり、内容が重複する部分がある。 両方を読み比べることで、この原則が、特定の作品に限らない、日本語一般の性質であることが、より確かめられるはずである。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 修飾語の位置 | 「そこにこごんでいる」「砂の上に落ちた」など、説明のかたまりは、必ず名詞の前に置かれる |
| 英語との違い | 英語の関係節は名詞のあとに続くが、日本語はその逆 |
| 述語の位置 | もっとも重要な情報(動詞+否定+時制など)が、文の最後に置かれる |
| 二つの原則の関係 | 「修飾語は前」「述語は最後」——どちらも、日本語の基本的な語順の性質 |
一言でいえば——日本語は、名詞の前に、どれほど長くても修飾語を積み上げ、文の最後に、もっとも重要な述語を置く言語である。