前の記事で見た「は・が」は、文のなかの、部品と部品の関係を示す仕組みだった。この記事では、視点を変えて、日本語が、人をどう指し示すかという問題を読む。

本名を明かさない、という宣言

『こころ』の語り手「私」は、冒頭で、はっきりとこう宣言する。

私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。

これは、単なる文学的な演出ではない。この宣言のあと、実際に、作品全体を通して、「先生」の本名は、一度も明かされない。日本語の物語は、固有名詞を使わなくても、最後まで破綻なく書き進められるという、一つの実例が、ここにある。

同じ人物を指す、複数の呼び方

先生が初めて登場する場面を見てみよう。

私は実に先生をこの雑沓の間に見付け出したのである。……私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴れていたからである。

その日本人は砂の上に落ちた手拭を拾い上げているところであったが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。

同じ人物が、「先生」「その日本人」「その人」と、複数の呼び方で指し示されている。英語であれば、いったん名前が導入されたあとは、多くの場合、代名詞(he)で処理される場面である。日本語は、ここで、呼び方そのものを、文脈に応じて切り替えるという、違う方法を取っている。

呼び方が、視点を語る

なぜ、「先生」が、途中で「その日本人」と言い換えられるのか。この場面を、もう一度読むと、理由が見えてくる。

彼はやがて自分の傍を顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言二言何かいった。

この時点で、「私」は、まだこの人物が「先生」だとは知らない。西洋人の連れの、名もない「日本人」として、観察しているにすぎない。「その人がすなわち先生であった」という一文で、初めて、「私」の認識が追いつき、「日本人」という呼び方が、「先生」という呼び方へ切り替わる。呼び方の変化そのものが、語り手の認識の変化を、読者に伝えているのである。

「彼」という代名詞の、限定的な役割

この場面には、「彼」という代名詞も登場する。

彼は我々の穿く猿股一つの外何物も肌に着けていなかった。

この「彼」は、先生ではなく、西洋人を指している。日本語の「彼」は、英語の”he”のように、文脈中の、あらゆる男性を無差別に指せる万能の代名詞ではない。ここでは、直前の文脈で話題になっていた、西洋人を指す語として、限定的に使われている。人物が複数いる場面では、「彼」だけに頼らず、「先生」「その日本人」「西洋人」といった、具体的な呼び方を使い分けることで、誰について話しているかを、読者に、常にはっきりと示す必要がある。

「その日本人」 まだ先生だと認識する前 名もない観察対象 「その人がすなわち先生であった」 認識の切り替わりの瞬間 「先生」 以後、一貫して使われる呼び方 本名は最後まで明かされない 呼び方の切り替えそのものが、語り手の認識の変化を伝える 図:ToL(先生登場場面の呼び方の分析による)
呼び方の切り替えが、認識の変化を伝える。図:ToL

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、この記事で確認した「呼び方の切り替え」は、この特定の場面における、語り手の認識の変化と、密接に結びついている。 すべての日本語の物語が、同じ仕組みで人物を指し示しているとは限らない。

第二に、「彼」という代名詞の使用頻度や、その限定的な性質について、この記事は、この一節から確認できる範囲の観察にとどめている。 日本語における人称代名詞の、より体系的な研究は、この記事の範囲を超える。

まとめ

論点内容
本名を明かさない宣言物語全体を通して、先生の本名は一度も明かされない
複数の呼び方「先生」「その日本人」「その人」——同じ人物が、文脈に応じて呼び分けられる
呼び方の切り替え「その人がすなわち先生であった」——語り手の認識の変化を、呼び方の変化で示す
「彼」の限定性万能の代名詞ではなく、直前の文脈の、特定の人物を指す語として使われる

一言でいえば——日本語は、固有名詞に頼らなくても、呼び方を文脈に応じて切り替えることで、人物を正確に指し示し、時には、その呼び方の変化そのものを使って、語り手の認識の変化までも伝えることができる。