第八章は、この本の結語であり、三島が、一人の小説家として、自分の仕事場を見せる章である。約5,700字と短いが、この本の中で、三島自身の癖や好みが、最もはっきり出ている。(ページ数は、全体像の記事で述べた版による。)
空気から元素を抽出する
章は、「私はひとりの小説家であります。机に向っています」と始まる。三島は、空中の窒素と酸素から薬品を作る人のように、なんにもない空中から元素を抽出して、文章に固定する、と自分の仕事を例える。書ける日もあれば、書けない日もある。文章の速度を、素人はよく聞くが、月に何百枚書くかは、自慢にならない、と言う。
スピードと密度
三島は、谷崎潤一郎が『盲目物語』を、高野山にこもって、ほぼ一日に一、二枚の速度で書いたという話を挙げ、氏の流暢な文章が、苦心惨憺して書かれたことを示す。文章の不思議は、大急ぎで書かれた文章が、かならずしもスピードを感じさせず、スピーディーに見える文章が、長い時間をかけて作られていることだ、と三島は言う。
そこで、三島は、「密度」と「スピード」の関係を論じる。早く書けば密度が粗くなり、読む側には、スピードが落ちて見える。ゆっくり書けば文章が圧縮され、読む側には、スピードが強く感じられる。三島は、最も迅速なスピードをもつ文章として、ジャン・コクトーの『山師トマ』を挙げ、日本の例としては、鷗外の『澀江抽斎』を挙げる。
推敲をしない、という宣言
三島の推敲の方法は、独特である。
私は文章をあとから訂正するということをしません。(p.190)
出来上がった文章は、その年代、その時代の、考え、感じたことの真実を現わしているので、時がたってから修正することは不可能だ、と三島は言う。
私にとっては推敲は、原稿用紙一枚一枚の勝負です。(p.190)
原稿用紙の一枚のなかで、文章が行儀よく納まり、一定の密度をもち、曖昧な部分がなければ、次に進む、という。
凡庸な一行を、溶かしこむ
三島は、短篇小説ばかり書いていたころは、文章のなかに凡庸な一行が入ることが、ひどく不愉快だった、と言う。しかし、それは小説家にとって、つまらない潔癖にすぎないと気づいた、と述べる。
凡庸さを美しく見せ、全体の中に溶けこますことが、小説というこのかなり大味な作業の一つの大事な要素なのであります。(p.190)
たとえば、「月が上った。屋根のひさしが明るくなった。二人は散歩に出た」という文を、以前なら、感覚的な発見をちりばめずには書けなかっただろう。今は、そういうところに労力を惜しみ、自然な平坦な文章のところどころに、「結び目」をこしらえる。結び目が多すぎると、喉につかえるからだ、と三島は言う(p.190)。
三島の癖と好み
このあと、三島は、自分の癖や好みを、いくつも挙げる。この部分は、この本の中でも、最も個人的な記述である。
- 個性的な外観を警戒する。 文章があまりに個性的だと、読者が作者の個性ばかりに気をとられ、物語を読まなくなるから。
- 同じ言葉を続けない。 「病気」と書いたら、次は「やまい」と書こうとする。
- 対句が好き。 「彼女は感情を尊敬し、理性を軽蔑していた」のような書き方を好む。ネクタイの好みのようなもので、変えられない、と言う。
- リズムを大切にする。 七・五調ではないが、一貫したリズムを要求する。流れのなかの小石を、置きかえて、リズムを調整する。
- 過去形の連続に、現在形を挟む。 日本語は、動詞が文の最後にくるので、「……た」「……た」が続きやすい。適度に現在形を入れることで、リズムが変わる。
- 「彼女」を避ける。 「彼女」という言葉は、日本語として熟していない、と感じる。女性の登場人物は、名前を何度でも繰り返す。
- 随想で「僕」を使わない。 会話のなかだけで使われるべき言葉だと考える。
- 小説で、映画俳優の名前を出さない。 十年後に、誰かわからなくなるから。
これらは、三島の好みであり、正しい書き方の規則ではない。三島自身が、「これは私のネクタイの好みのようなもの」と言っているとおりである。
格調と気品
章の最後で、三島は、文章の最高の目標を、「格調と気品」に置く、と述べる。正確な文章でなくても、格調と気品のある文章を尊敬する、と言う。日本語がますます雑駁になる時代に、それを求めるのは時代錯誤かもしれない、しかし、「闇のなかに目がなれるにしたがって物がはっきり見えてくるように」、後代の人の眼に見えるものとなるだろう、と書く。
その根拠は、次のとおりである。
具体的に言えば、文章の格調と気品とは、あくまで古典的教養から生れるものであります。(p.196)
そして、本は、次の一文で結ばれる。
文体による現象の克服ということが文章の最後の理想であるかぎり、気品と格調はやはり文章の最後の理想となるでありましょう。(p.196)
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、この章の「規則」は、三島個人の好みである。 「彼女」「僕」「俳優の名前」についての三島の感覚は、1959年の、一人の作家のものである。現在の書き手が同じ規則を採る必要はない。
第二に、「格調と気品」は、この本の中で、定義されていない。 三島は、それが古典的教養から生まれ、後代の眼に見えるものになる、と述べるが、具体的な基準は示さない。その意味では、この結語は、三島の信念の表明として読むのがよい。
第三に、この章の三島の言葉は、後半の作品の特集で、もう一度、試される。 「凡庸さを美しく溶かす」「結び目」といった方法が、実際の作品で、どう現れているかは、作品を読まなければわからない。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 仕事の方法 | あとから訂正しない。推敲は原稿用紙一枚ごとの勝負 |
| 密度とスピード | 早く書くと密度が粗くなり、ゆっくり書くとスピードを感じさせる |
| 凡庸さ | 凡庸さを美しく見せ、全体に溶けこませる。平坦な文に、ところどころ結び目 |
| 癖と好み | 同じ言葉を続けない/対句/現在形を挟む/「彼女」「僕」を避ける |
| 最後の理想 | 格調と気品。古典的教養から生まれる。文体による現象の克服 |
一言でいえば——結語で、三島は、規則ではなく、自分の好みと信念を語った。文章の最後の理想は、格調と気品であり、それは古典的教養から生まれる、と。