第五章「評論の文章」と第六章「翻訳の文章」は、合わせて約9千字と、この本のなかで短い。だが、三島の文章観が、はっきり出ている。(以下の要約は ToL による。ページ数は、全体像の記事で述べた版による。)

第五章:評論の文章

批評も、芸術作品である

三島は、戯曲、小説、詩だけでなく、批評も、立派な芸術作品でありうる、と言う。批評が芸術作品かという問いは、『文章読本』で扱う範囲ではないとして、オスカー・ワイルドの評論を挙げるにとどめる。自分は、小説より、文章の悪い評論を読むことに難渋する、とも言う。そして、ひどい悪口が、見事な文体で書かれていることは、下手な小説を読むより自分を喜ばせる、と述べる(p.109–110)。

日本語の「論理性」

ここで、三島は、評論の文章の困難を、「日本語における論理性の稀薄さ」に見る。近代の批評家で最も見事な評論の文章を書いた人は、ポール・ヴァレリーだ、と三島は言う。フランス語の明晰な性質を利用しつつ、気取りの飾りを帯びた、冷静な知性と優雅な社交人の綜合を、文体で完成させた、と評する(p.110–111)。

これに対して、日本の評論家は、日本語の非論理的な性質と、対象の貧しさとによって、深い孤独を味わってきた、と三島は述べる(p.111)。

小林秀雄と中村光夫

その孤独を破った一人として、三島は、小林秀雄を挙げる。ヴァレリーと同じく論理的でありながら、日本の伝統の感覚的な思考の型に固執した強さがある、と言う(p.111)。

その次に、中村光夫を挙げる。中村は、小林のように日本語への屈服を捨て、日本人の思考の型を排除しながら、厳密な論理的文体を作った、と三島は言う。

氏が有名な「です口調」を使い出したのは、私には普通口語文のともすると陥りがちな日本的感性から身をそらし、現代の口語文の一種の有機性に背反し、無機的な文体を作ろうとした結果だと思われます。(p.112)

そして、その論理的な文体は、感受性の細い糸が、裏面から巧妙に織り合わされていて、しかも、その感受性が論理を押しのけてはみ出すことはない、と評する。

いつもかならず感受性が論理の侍女になるように躾けられています。(p.112)

三島は、このようなストイックな文体が、現代の小説にあまり見られず、かえって批評の領域に見出されるのは、「不思議な現象」だと述べる。

第六章:翻訳の文章

「名訳」がない、という認識

第六章は、日本文学が海外で翻訳されはじめたことから始まる。谷崎潤一郎、川端康成の作品や、大岡昇平の『野火』が、英訳された。しかし、日本人が外国語に訳した日本文学の名訳は、ほとんどない、と三島は言う(p.116)。

一方、日本語の側では、二葉亭四迷のころから、翻訳調という、奇妙な直訳調が広がり、翻訳文の質が乱れた。しかし、語学的にも文学的にも優れた翻訳が作られ、翻訳文と日本語は融合し、今日では、日本語の文章そのものに翻訳調が入り込んでいる、と三島は述べる(p.116–117)。

注釈をきらう、外国の出版社

三島は、自分の経験から、外国の出版社や読者が、英語としての訳文の美しさを重んじることを知った、と言う。日本では、翻訳小説にも、いかめしく注釈がつく。外国の出版社は、小説本の注釈をきらう。注釈なしに読者にわからせるのが、翻訳者の手腕であり、礼儀だ、というのである(p.117–118)。

二つの態度

三島は、翻訳に二つの対照的な態度を見る(p.118–120)。

三島は、この二つから選ぶ基準を、こう述べる。翻訳されたものが、日本文学と肩を並べ、日本文学の一つの宝としてもち出しても不思議でないものこそ、立派な翻訳文である、と。

翻訳文を読む教養

読者に対する三島の言葉は、厳しい。わかりにくかったり、下手だったりしたら、すぐ放り出すことが、原作者への礼儀だ、と言う。そして、語学ができないからといって、翻訳文にケチがつけられない、という馬鹿なことはない、と述べる。翻訳文は、まぎれもなく日本語であり、日本の文章だからである。

翻訳は八分の功績と二分の害悪がある薬品のようなものであって、(p.122)

三島は、翻訳者の恣意によって、外国文学が歪められて伝えられてきた害を挙げ、リルケがセンチメンタルに、ジイドが抒情的に、シュトルムなどのロマン派が少女向きの読物として紹介されてきた、と例を挙げる。同時に、現代日本語の豊かさが、いかに多くの翻訳に負っているかも、序章と同じく力説する(p.122)。

第五章 評論の文章 ヴァレリー:明晰さと気取りの綜合 小林秀雄:論理と、感覚的思考の型 中村光夫:感受性が「論理の侍女」 第六章 翻訳の文章 基準:日本文学と肩を並べる日本語か 語学ができなくても、訳文は評価できる 「八分の功績と二分の害悪」 態度①:個性の強い翻訳 自分の色に染める(鷗外、日夏耿之介ほか) 態度②:オーソドックスな翻訳 原文の雰囲気を再現する(杉捷夫ほか) 図:ToL(第五・六章の三島の説明による)
第五・六章の見取り図。図:ToL

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、「日本語は論理性が稀薄」という三島の見方は、1959年の、一人の作家の印象である。 どの言語が、論理的に強いか弱いかという見方に、一般の言語学は慎重である。この章の評論家評価(小林、中村)を読むうえでも、三島の見方であることを、区別しておきたい。

第二に、翻訳をめぐる状況は、当時とは変わっている。 三島が「名訳がほとんどない」と述べた、日本語から外国語への翻訳は、その後、大きく増えた。この記事では、その後の状況は、確かめていない。

第三に、この二つの章は、三島が読者に求める態度を示している。 文章を味わうのに、専門の知識は要らない、自分の判断で、良い文章と悪い文章を区別せよ、という態度は、第一章の「精読者」の考えと、つながっている。

まとめ

論点内容
批評批評も芸術作品たりうる。日本語の論理性の稀薄さが、評論の困難
評論の文体ヴァレリー、小林秀雄、中村光夫。感受性が論理の侍女になる文体
翻訳の基準日本文学と肩を並べて存在しうる訳文か
二つの態度個性の強い翻訳/オーソドックスな翻訳
読者へ語学ができなくても、訳文の良否は判断できる。悪い訳は放り出す

一言でいえば——三島は、評論には論理に仕える感受性を、翻訳には日本語として読める美しさを求め、いずれの場合も、読者自身の判断の力を信じた。