つぎの二つの文を見比べてほしい。
「無色の緑の観念が猛烈に眠る」 「眠る猛烈に観念緑無色」
どちらも意味は分からない——というより、意味をなさない。けれど、日本語(あるいは英語)を知っている人なら、前者のほうが「文としてありえる」形をしていて、後者は単語がバラバラに転がっているだけだ、と感じるはずだ。
これは、1957年に出たノーム・チョムスキーの小さな本『統辞構造論』が投げかけた、最初の問いである。「文法的に正しい」というのは、いったい何を基準に決まっているのか。
「意味が分かる」からでも、「よく聞く」からでもない
ふつう思いつく答えは二つある。一つは「意味が通じるかどうか」。もう一つは「よく使われる言い回しかどうか」。
でも、さっきの例を見ればわかる通り、どちらも違う。「無色の緑の観念が猛烈に眠る」は意味不明だが文法的で、しかもこんな言い回しはこれまで一度も使われたことがないはずだ(それは逆の語順の文も同じ)。それでも、片方だけが「文らしい」。
つまり、「文法的に正しい」というのは、意味とも、使用頻度とも、別の何かだ。チョムスキーはこの本で、その「何か」を突き止めようとする。
単語をただ順番に予想する機械では、足りない
まず考えられるのは、「前の単語から次の単語を予想していく機械」というアイデアだ。「私は」ときたら次は「〜を」か「〜が」が来やすい、というふうに、一歩ずつ次の単語を選んでいく。これなら、単語を選ぶ選択肢(=道)をどんどん増やしていけば、いくらでも長い文を作れそうに思える。
ところが、この方式にはどうしても越えられない壁がある。たとえば、こんな文を考えてみよう。
「もし明日雨が降るなら、私たちは家にいる」
この文では、「もし」ときたら必ず「なら」で受けなければならない。「もし」と「なら」のあいだに、どんなに長い言葉を挟んでもいい——それこそ、その中にまた別の「もし〜なら」の文を丸ごと入れることもできる。人形の中にまた小さな人形が入っている「入れ子人形」のように、何重にも重ねられる。
一歩ずつ前の単語だけを見て次を予想する機械は、この「入れ子」を扱えない。ずっと先にある「なら」を正しく選ぶには、はるか手前の「もし」を覚えておく必要があるが、この機械の仕組みにはそもそも「覚えておく」余地がないからだ。チョムスキーは、これは技術的に難しいという話ではなく、原理的に不可能だと示す。だから「一歩ずつ単語を予想する」という発想そのものを、言語の説明には使えない。
文を「箱の中の箱」として考える
次に出てくるのが、「文を箱に分けていく」やり方だ。「その男がボールを打った」という文を、まず「その男が」という箱と「ボールを打った」という箱に分け、後者をさらに「ボールを」と「打った」に分ける——学校の国語の授業でやる文節分けに近い。
これは、さっきの機械よりずっとうまくいく。でも、これでもまだ足りない場面がある。
一つは、「入れ替え」が必要な文だ。「太郎が花子を褒めた」を「花子が太郎に褒められた」に変える——受け身の文——には、主語と目的語をそっくり入れ替える必要がある。箱を分けるだけのやり方では、「入れ替える」という操作そのものを表現できない。
もう一つは、「離れているのに一つの部品」という場面だ。「読んでいた」のような言い方は、「て」と「いた」が離れた場所にくっついて初めて意味をなす一つの部品なのだが、これも箱分けだけでは扱いにくい。
文をまるごと「書き換える」——変形という発想
そこでチョムスキーが持ち出すのが、「ある種類の文を、別の種類の文に、まるごと書き換える」という発想だ。これを「変形」と呼ぶ。
- 「太郎が花子を褒めた」→(否定の変形)→「太郎は花子を褒めなかった」
- 「太郎が花子を褒めた」→(疑問の変形)→「太郎は花子を褒めたか」
- 「太郎が花子を褒めた」→(受け身の変形)→「花子は太郎に褒められた」
出発点になる、いちばんシンプルな文(「太郎が花子を褒めた」のような、飾りけのない文)を「核(コア)」と呼び、そこにこうした書き換え操作を一つずつ重ねていくことで、あらゆる複雑な文を作り出す——これが本書のいちばんの発明である。
面白いのは、この「書き換え操作」の道具がとても少なくて済むことだ。否定文を作る仕組みも、疑問文を作る仕組みも、実はほとんど同じ部品を使い回している。まったく別の目的のために作った規則が、思いもよらない別の謎まで、ついでに解いてしまう——本書はそういう場面をいくつも見せてくれる。英語の”have”(現代音楽の本を持っていますか?=“have you a book…?”)が、他の動詞とはちがう特別なふるまいを見せる理由も、実はこの仕組みのおまけとして説明がついてしまう。
同じ形なのに、二通りに読める文
もう一つ、この本が教えてくれる面白いことがある。「狩人たちの射撃」という言い方は、「狩人たちが(何かを)撃つ」ことなのか、「(誰かが)狩人たちを撃つ」ことなのか、実はどちらにも読める。
文字面(もじづら)だけを見ると、この二つの読み方はまったく同じ形をしている。区別がつくのは、それぞれがどういう元の文から作られたかを考えたときだけだ——片方は「狩人たちが撃つ」という文から、もう片方は「(誰かが)狩人たちを撃つ」という文から。
つまり「あいまいな文」というのは、同じ見た目の裏に、二通りの成り立ちが隠れている文のことなのだ。この視点は、「文を理解する」ということ自体が、実はその文の「成り立ち」を追体験することなのかもしれない、という考え方につながっていく。
この本がしたこと
まとめると、この小さな本は、こんな問いに答えようとした。
正しい文だけをすべて作り出し、まちがった文は一つも作り出さない——そんな「仕組み」を、できるだけシンプルな形で書けるだろうか。
そして「意味」にも「頻度」にも頼らず、「単語をただ並べる」よりも強い「箱分け」を、さらに「書き換え(変形)」で補うことで、その答えに近づいた。専門的にはずいぶん込み入った本だが、根っこにある問いはとてもシンプルで、今なお言語学の中心にあり続けている。
もっと詳しく、それぞれのアイデアを一つずつ見ていきたい人は、『統辞構造論』の5つのアイデアを、一つずつへ。