『統辞構造論』第8章は、それまでの議論とは違う角度から、文法の妥当性を試す基準を提示する。あいまいさだ。ある文が複数の意味に読めるなら、その文は文法のどこかのレベルで、複数の分析を許しているはずだ——逆に、複数の分析を許す文は、実際にあいまいに理解されるはずだ。この対応がきちんと取れているかどうかで、文法の出来を測れる、とチョムスキーは言う。

一つの単語の中のあいまいさ

いちばん単純な例は、音のレベルだ。英語の”a name”(一つの名前)と”an aim”(一つの目標)は、話し言葉ではまったく同じ音の並び /əneɪm/ になりうる。もし文法が音素のレベルしか持たなければ、この一致は説明できない。だが形態素のレベル——“a”, “an”, “aim”, “name”という単位——を立てれば、この音の並びが二通りに分析できることが、形態論を組み立てる過程で自然に出てくる。あいまいさの発見そのものが、「形態素というレベルを立てる根拠」になるわけだ。

同じことが、句構造のレベルでも起きる。“they are flying planes”は、「あの機影は飛行中の飛行機だ」とも、「あの人たちは飛行機を操縦している」とも読める。この二通りは、句構造の段階ですでに違う形に分析される——“flying”が”planes”を修飾する形容詞なのか、それとも”are flying”という進行形の動詞に”planes”が目的語としてぶら下がっているのか。

「狩人たちの射撃」——変形のレベルでしか見えないあいまいさ

だが、句構造のレベルまで降りても、まだ説明できないあいまいさがある。

“the shooting of the hunters”(狩人たちの射撃)は、狩人が撃つ側(“the hunters shoot”)とも、撃たれる側(誰かが”they shoot the hunters”)とも読める。ところが、この二つの読みは、句構造のレベルではまったく同じ形——“the - V+ing - of + NP”——に分析されてしまう。句構造だけでは、このあいまいさの居場所がない。

the shooting of the hunters 句構造のレベルでは一つの形にしか見えない 核文:the hunters shoot =狩人たちが撃つ(主語の読み) 核文:they shoot the hunters =狩人たちを撃つ(目的語の読み) 同じ表層の形なのに、変形のレベルまで降りると、出どころの核文がはっきり分かれる。
「構成的同音異義」の典型例。あいまいさの正体は、変形のレベルにしか現れない。図:ToL

変形のレベルまで降りると、はっきり分かれる。前者は”the hunters shoot”という核文から、名詞化変形(NP - C - V → the - V+ing - of + NP)によって導かれる。後者は”they shoot the hunters”という、目的語を持つ核文から、別の名詞化変形によって導かれる。あいまいさの正体は、どの核文から、どちらの変形で来たかの違いなのだ。

似た例に”the picture was painted by a new technique”(新しい技法で描かれた)と”the picture was painted by a real artist”(本物の画家に描かれた)がある。句構造上はどちらも”NP - was+Verb+en - by + NP”という同じ形なのに、理解はまったく違う。前者は能動文の道具を表す”by”句がそのまま残った形、後者は受動変形によって挿入された「動作主」の”by”句であり、変形の履歴がまったく異なる。

文法は意味に基づいているのか

第9章では、チョムスキーは逆側から議論を固める——「文法は意味に基づいて組み立てられるはずだ」という、当時よく聞かれた主張を、一つずつ検証する。

たとえば「主語・動詞の関係は〈行為者・行為〉という意味に対応する」という主張。だが”I will disregard his incompetence”(彼の無能さは無視する)や”I missed the train”(電車に乗り遅れた)を見れば、「動詞・目的語の関係=〈行為・対象〉」という単純な図式は崩れる——“disregard”や”miss”の目的語は、行為が及ぶ「対象」というより、行為が成立しなかった相手気づかれなかった対象であり、意味の型は文ごとにさまざまだ。

音の区別についても同様だ。“bachelor”(独身男性)と”unmarried man”は同義語だが音はまったく違い、“bank”(土手)と”bank”(銀行)は同音だが意味は別——「音が同じなら意味も同じ、意味が同じなら音も同じ」という単純な等式は、どちらの向きにも崩れる。

それでも、チョムスキーは意味を無視してよいと言っているわけではない。

Grammar is best formulated as a self-contained study independent of semantics. (文法は、意味論から独立した、自己完結した研究として組み立てるのがもっともよい。ToL訳)

「独立して組み立てるのがよい」——これは「意味とは無関係だ」とは違う。実際、第8章の構造的あいまいさの議論そのものが、文法の形式(統語論)と、人がその文をどう理解するか(意味論的な事実)とのあいだに、はっきりした対応があることを示している。ただし、その対応は文法を基礎づけるほど正確ではない。だからこそ、まず統語論を形式だけで自律的に組み立て、そのあとで意味との対応を独立に調べる——この二段構えの手順こそが、本書の方法論的な核心である。

結びに

構成的同音異義という基準は、「文法のどこにも表れない違いは、理解の違いとしても存在しないはずだ」という強い主張を含んでいる。この基準に照らして、チョムスキーは句構造を超えた「変形」というレベルの必要性を、あいまいさという具体的な現象から証明してみせた。そして、文法が意味に基礎を置かないという立場を取りながら、同時に文法と意味のあいだの対応を真剣に研究対象とする——この両立が、『統辞構造論』という本の、もっとも誤解されやすく、もっとも周到な結論である。