講演の締めくくりで、漱石は、個人主義という言葉に、もう一つの誤解が付きまとうことに触れる。個人主義は、国家主義の反対物であり、国家を危うくするものだ、という誤解である。(前の記事で、漱石が個人主義を党派主義と対比させたことを見た。)

個人主義は国家主義の反対ではない

漱石は、この誤解を、はっきりと否定する。「個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな理窟の立たない漫然としたものではない」——「事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもある」というのが、漱石の答えである。

漱石は、この両立を、寒暖計の比喩で説明する。

各人の享有するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。……国家が危くなれば個人の自由が狭められ、国家が泰平の時には個人の自由が膨脹して来る、それが当然の話です。

国家が危機にあるときは、個人の自由は自然と縮小し、国家が安泰なときは、個人の自由が拡がる。これが、自然な状態だ、と漱石は言う。

熊本高等学校での、ある演説

この論点を、漱石は、自分自身の若い頃の逸話で裏づける。熊本の高等学校にいた頃、国家主義を掲げる会が作られ、漱石も会員にされていた。その発会式で、ある会員が、漱石の意見に反対する演説を行った。漱石は、やむなく反論に立ち、「朝から晩まで国家国家と云ってあたかも国家に取りつかれたような真似はとうてい我々にできる話でない」と述べたうえで、あえて卑近な例を持ち出す。

豆腐屋が豆腐を売ってあるくのは、けっして国家のために売って歩くのではない。根本的の主意は自分の衣食の料を得るためである。しかし当人はどうあろうともその結果は社会に必要なものを供するという点において、間接に国家の利益になっているかも知れない。

豆腐屋は、国家のためではなく、自分の生計のために豆腐を売る。それでも、結果として、社会に必要な物を供給することで、間接的に国家の利益になっているかもしれない。漱石は、この論理を、自分が昼に飯を三杯、夜に四杯食べたのも「正直に云えば胃の具合できめたのである」と、さらに卑近な例で畳みかける。この語り口が、漱石の議論の急所を鋭く突いている。

国家主義を奨励するのはいくらしても差支ないが、事実できない事をあたかも国家のためにするごとくに装うのは偽りである。

国家的道徳と、個人的道徳

講演の最後に近く、漱石は、もう一つの重要な指摘を加える。国家という単位で考える道徳は、個人という単位で考える道徳よりも、水準が低いものだ、というのである。「国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません」——国家と国家のあいだの関係は、外交辞令こそ整っていても、実際の道義心は高くない、と漱石は率直に言う。

だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きをおく方が、私にはどうしても当然のように思われます。

国家が平穏なときには、道義心の高い個人主義に重きを置くほうが自然だ、というのが、漱石の結論である。

寒暖計の比喩 個人の自由は、国家の安危に応じて伸び縮みする 国家が危い時は自由が狭まり、泰平の時は自由が広がる——自然な状態 豆腐屋の例え 豆腐屋が豆腐を売るのは、国家のためでなく、自分の衣食のため 結果として社会の役に立ち、間接に国家の利益になることはある 国家のためにするごとく装うのは「偽り」 図:ToL(第二篇末尾の議論による)
個人主義と国家主義の両立。図:ToL

読むうえで、確かめておきたいこと

第一に、漱石の議論は、あくまで1914年当時の日本を念頭に置いている。 「今の日本はそれほど安泰でもないでしょう」という漱石自身の留保にあるように、彼は、国家が危機にあるときには、個人の自由が縮小することを「当然」と認めており、個人主義を、いかなる状況でも優先すべき絶対的な価値としては語っていない。

第二に、熊本高等学校での演説の逸話は、漱石自身の回想であり、当時の聴衆の反応や、演説の正確な文言は、この記事では確認していない。

まとめ

論点内容
誤解の否定個人主義は国家主義の反対物ではない。両立し得る
寒暖計の比喩個人の自由は、国家の安危に応じて自然に伸び縮みする
豆腐屋の例え豆腐屋は国家のためでなく自分の衣食のために働く。それでも間接に社会の役に立つ
国家的道徳と個人的道徳国家間の道徳は水準が低い。平穏な時は個人主義に重きを置くのが自然

一言でいえば——漱石は、豆腐屋の例えという、あえて卑近な比喩を使って、個人主義と国家主義が対立するものではなく、状況に応じて自然に釣り合うものであることを示した。