第2記事で、漱石が「自己本位」を発見するまでの過程を、霧・嚢・錐・鶴嘴・鉱脈という一連のイメージで語ったことを見た。この記事では、その一節(第44〜53段落)に戻り、比喩がどのような順序で姿を変えていくかを、原文に即して確かめる。
第一段階——霧と、探照灯
比喩は、まず「霧」から始まる。
私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。そうしてどこからか一筋の日光が射して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。
ここでの漱石は、まだ受け身ではない。「日光が射して来ないか」という、外から与えられる光を待つのではなく、「探照灯を用いて」自分から先を照らしたい、と言う。この時点で、すでに、後の「自己本位」——自分の側から動く、という姿勢が、かすかに先取りされている。
第二段階——嚢と、錐
だが、探照灯もまだ、比喩の到達点ではない。次の段落で、イメージは「嚢」(袋)に移る。
あたかも嚢の中に詰められて出る事のできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず……
「探照灯」で遠くを照らす、という開放的なイメージから、「嚢」に閉じ込められている、という閉塞的なイメージへ——ここで、比喩の方向が反転していることに注意したい。霧の中に「立ち竦む」だけだった状態が、「嚢」というより具体的で、より息苦しいイメージへと収斂していく。そして、そこに「錐」という、初めての道具が登場する。だが、この錐は、まだ手に入っていない。「与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず」——道具そのものが、まだ存在しないのである。
第三段階——読書の無力
嚢を突き破る錐は、どこにあるのか。漱石は、それを本のなかに探そうとするが、失敗する。
しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐は倫敦中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。
「倫敦中探して歩いても」という一節は、地理的な広がりを持ち込んでいる点で興味深い。錐は、特定の一冊の本のなかにあるのではなく、ロンドンという都市全体を探しても見つからない、というスケールの大きさが、煩悶の深さを際立たせている。
第四段階——他人本位という診断
錐が見つからないまま、漱石は、なぜ見つからないのかを、初めて分析的に捉え直す。
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍のように、そこいらをでたらめに漂よっていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。
ここで、比喘のモードが、一時的に途切れる。「嚢」でも「錐」でもなく、「根のない萍」(浮き草)という、新しいイメージが挿入される。錨を下ろせない、漂うだけの存在——これは、「嚢」に閉じ込められている状態とは、また違う種類の不安定さを表している。
第五段階——自己本位という言葉
「他人本位」の診断のあと、漱石は、その対義語として「自己本位」という言葉を導入する。
一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて……
ここで、比喩はいったん止まり、抽象的な四字熟語が提示される。イメージから概念への切り替えである。だが、漱石は、すぐにまた、この抽象的な言葉を、具体的なイメージへと落とし込む。
第六段階——鶴嘴と、鉱脈
最後に、比喩は、「錐」から「鶴嘴」へと交代する。
私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。
「錐」は、小さく、壁を「突き破る」ための道具だった。「鶴嘴」は、それよりも大ぶりで、地面を「掘り当てる」ための道具である。そして、その先にあるのは、単なる出口ではなく、「鉱脈」——価値あるものが埋まっている場所——である。錐が果たせなかった役割を、鶴嘴が、より大きなスケールで引き継ぐ。
読むうえで、確かめておきたいこと
第一に、この「六段階」という区分は、ToLによる分析であり、漱石自身がこのように段階分けして語っているわけではない。 講演という話し言葉の性質上、比喩は、聴衆に向けて即興的に重ねられていった可能性が高く、厳密に設計された文学的構成として読むよりは、話しながら像が像を呼んだ結果として読むほうが自然かもしれない。
第二に、「錐」から「鶴嘴」への交代は、単なる言い換えではなく、道具の規模の変化として読むことができる。 錐は壁の向こうを覗くための道具であり、鶴嘴は、価値あるものを掘り当てるための道具である。この違いは、漱石の「自己本位」が、単なる現状からの逃避ではなく、何かを積極的に掘り当てる行為として捉えられていたことを示唆している。
まとめ
| 段階 | イメージ |
|---|---|
| ① | 霧の中に立ち竦み、探照灯で先を照らしたいと願う |
| ② | 嚢に閉じ込められ、突き破る錐を求めるが見つからない |
| ③ | ロンドン中を探しても、錐は見つからない |
| ④ | 「根のない萍」という診断——他人本位の不安定さ |
| ⑤ | 「自己本位」という、抽象的な四字の言葉が導入される |
| ⑥ | 鶴嘴が鉱脈に当たる——具体的な到達のイメージ |
一言でいえば——漱石の比喩は、一つのイメージに固定されず、霧から嚢へ、錐から鶴嘴へと、少しずつ姿を変えながら、抽象的な「自己本位」という言葉を、具体的な実感として聴衆に届けている。