概要で見たとおり、名詞は「実体(それ自体で存立するもの)」と「偶有(実体によってのみ在るもの)」に対応して、実体詞と形容詞に分かれる。だが第2部・第2章を実際に読むと、著者たちはこの単純な対応だけでは満足していない。彼らはもう一段深く、「語は何を、どう意味しているのか」を問う。「白い」「賢い」「丸い」——これらの形容詞は、いったい何を指しているのだろうか。白さそのものだろうか、それとも白いものだろうか。ふだん私たちはこの問いを意識することさえない。「白い雪」と言うとき、白さと雪のどちらを形容詞が「意味している」のか、立ち止まって考える機会はまずないからだ。だが著者たちは、この当たり前すぎる問いにこそ正面から丁寧に向き合うところから、この章の議論を始めている。

1. 「実体」対「偶有」——出発点

Les objets de nos pensées sont ou les choses, comme la terre, le soleil… ce qu’on appelle ordinairement substance ; ou la manière des choses, comme d’être rond, d’être rouge… ce qu’on appelle accident. (The objects of our thoughts are either things, such as earth and sun — what is ordinarily called substance — or the manner of things, such as being round, being red — what is called accident. フランス語引用の日本語訳・英訳は ToL による。以下同じ。)

私たちの思考の対象は、地や太陽のような、ものごとそのもの——ふつう実体と呼ばれるもの——か、丸い・赤いといった、ものごとのありよう——偶有と呼ばれるもの——かのどちらかだ。

実体を意味する語が実体詞、偶有を意味する語が形容詞——ここまでは分かりやすい。「地」「太陽」は実体そのものを指すから実体詞、「丸い」「赤い」は実体のありようを指すから形容詞、という単純な対応関係だ。だが著者たちはすぐに注意を促す。

on ne s’est pas tant arrêté à la signification qu’à la manière de signifier.

人々が着目したのは、意味している内容よりもむしろ、意味のしかただった。

2. 「白い」は二重に意味している——コノテーションという発見

「白い(blanc)」 distincte=はっきりと 「白さ」を意味する confuse=ぼんやりと 「何かの主語」を指す 白さ(blancheur) 白いもの(雪・紙・壁…) このぼんやりした指し示しを、アルノーは「コノテーション」と呼ぶ。だから「白い」だけでは文が終わらない。
「白い」は「白さ」をはっきり意味すると同時に、ぼんやりと主語を指し示す。この二番目の働きがコノテーション。図:ToL

では、形容詞が単独で文を終えられない理由は何か。著者たちの答えは、きわめて精密だ。

ce qui fait qu’un nom ne peut subsister par soi-même, est quand, outre sa signification distincte, il en a encore une confuse, qu’on peut appeler connotation…

ある語が単独で成り立たない理由は、はっきりした意味のほかに、もう一つぼんやりした意味を持っているからだ。このぼんやりした意味を、コノテーション(connotation)と呼ぶことができる。

「白い(blanc)」は、はっきりと「白さ(blancheur)」を意味する。だが同時に、ぼんやりと「白さが当てはまる何か」——雪でも紙でも壁でもいい——を指してもいる。この二番目の働き(コノテーション)があるせいで、形容詞は宙ぶらりんになり、名詞にもたれかかる。逆に、このコノテーションを取り除けば、形容詞は独立した実体詞に変わる——「色のついた(coloré)」から「色(couleur)」、「硬い(dur)」から「硬さ(dureté)」、「賢明な(prudent)」から「賢明さ(prudence)」というふうに。

この二重構造は、なぜ形容詞が名詞(実体詞)を修飾できるのかという、一見当たり前すぎて誰も疑問に思わない事実にも説明を与えている。「白い紙」と言えるのは、「白い」が単に「白さ」を表す独立した名前ではなく、どこかに宙ぶらりんな部分(コノテーション)を抱えているからこそ、「紙」という実体詞にそこを埋めてもらう形で結びつくことができるからだ、と考えれば筋が通る。逆に「白さ」という実体詞は、すでにそれ自体で完結しているので、「紙」と直接結びつくことはできない——「白さの紙」ではなく「紙の白さ」としか言えないのは、このためだ。実体詞どうしを結びつけるには、「の」のような別の仕掛け(前置詞や格)がどうしても必要になる。形容詞にはその仲介がいらない——コノテーションという、生まれつき備わった「空所」があるおかげで、実体詞に直接寄り添えるのだ。

この操作は、現代の言語学でいう「派生(derivation)」——形容詞から抽象名詞を作る接尾辞の働き——とほぼ同じものを指している。だがアルノーとランスロの関心は、語形の変化そのものより、その変化が「意味のしかた」に何をもたらすかにある。「硬い」から「硬さ」を作るとき、私たちは何かを足しているのではなく、むしろコノテーション(ぼんやりした指し示し)を取り除いて、はっきりした意味だけを残しているのだ、という捉え方は、単なる形態論を超えて、語の意味構造そのものへの分析になっている。しかもこの操作は一方向ではない。形容詞から実体詞へ(dur→dureté)だけでなく、実体詞から形容詞へ、コノテーションを新たに与える方向の派生(couleur→coloré)も、まったく同じ原理の裏返しとして説明できる、というのが著者たちの含意だろう。

3. 直接に、しかしぼんやりと/間接に、しかしはっきりと

ここから著者たちは、一見逆説的な結論を導く。「白い」が直接意味しているのは、白さではなく、実は主語のほうだという。

ils signifient le sujet directement… in recto, quoique plus confusément ; et… la forme qu’indirectement… in obliquo, quoique plus distinctement.

形容詞は主語を直接に(in recto)意味する——ただしよりぼんやりと。属性を意味するのは間接的に(in obliquo)——ただしより明確に。

対象 意味のしかた 主語(雪・紙…)直接に(in recto)ただし、ぼんやりと(confuse) 属性(白さ)間接的に(in obliquo)ただし、はっきりと(distincte) 「意味している対象」と「意味の明確さ」は、逆向きに対応している。
形容詞の二重構造。直接性と明確性は一致しない——むしろ食い違う。図:ToL

「白い」は、主語を直接に意味する——文の中で実際に指しているのは、白いその物のほうだからだ。ただし、どの物とは特定しないぼんやりした指し方でしかない。逆に「白さ」という属性は、間接的にしか意味されない——名指しされているわけではない——のに、その意味内容ははっきりしている。「直接性」と「明確さ」は一致するとは限らない、というこの観察は、意味論としてかなり繊細だ。

この逆説的な組み合わせ——主語は直接だがぼんやりと、属性は間接的だがはっきりと——は、一見すると理屈をこねているだけのようにも見える。だがなぜこの区別がわざわざ必要なのか。それは「白い雪」のような名詞句の中で、形容詞と実体詞がどう役割分担しているかを説明するためだ、と考えると分かりやすい。「雪」が主語(実体詞)として文の骨格を作り、「白い」はその雪に寄り添いながら、雪について「白さ」という情報を付け加える。もし形容詞が「白さ」だけを直接に意味し、主語をまったく指さないのだとしたら、「白い雪」という組み合わせがなぜ成り立つのか——なぜ「白い」が「雪」という特定の実体詞と結びつきうるのか——を説明できなくなってしまう。形容詞が主語を(ぼんやりとであれ)直接に意味しているからこそ、どんな実体詞とでも自由に組み合わさり、その実体詞に新しい情報を付け加えることができる、というのが著者たちの狙いだったのだろう。

4. 「王」は形容詞なのに、実体詞のようにふるまう

最後に、著者たちは逆向きの例外を扱う。「王(roi)」「哲学者(philosophe)」「画家(peintre)」「兵士(soldat)」——職業や身分を表す語は、実体詞のように単独で文に立つ。だが、よく見ればこれらは偶有(誰かが果たす役割)を意味しているのだから、論理的には形容詞のはずだ。

tels sont les noms de diverses professions des hommes, comme roi, philosophe, peintre, soldat.

人間のさまざまな職業を表す名がそれにあたる。王、哲学者、画家、兵士。

なぜ実体詞のように扱われるのか。理由は単純だと著者たちは言う——これらの語がもたれかかる相手(コノテーションの宛先)は、ほぼ常に「人間」一つに決まっているので、わざわざ言わなくても分かる。省略しても紛れが起きないから、実体詞の特権(単独で文に立つこと)を、用法として手に入れてしまったのだ。

この説明は裏を返せば、コノテーションの宛先があらかじめ一つに定まらない語は、けっして実体詞化しない、ということでもある。「白い」のコノテーションの宛先は、雪でも紙でも壁でも、ほとんど何にでもなりうる——だからこそ「白い」は決して独立せず、つねに何かの名詞を必要とする。これに対し「王」のコノテーションの宛先は、事実上「人間」一つに絞られている——だから省略しても、聞き手はまず間違えない。「賢明な(prudent)」という形容詞についても事情は似ているようで、少し違う。賢明さは人間以外にも(たとえば「賢明な判断」のように)当てはまりうるので、コノテーションの宛先は一つに絞りきれず、独立した実体詞にはなりにくい。職業名だけがこの点で特別なのは、宛先が「人間」というただ一種類の実体にほぼ完全に限定されているからだ、という違いが浮かび上がる。実体詞になれるかどうかは、語が生まれつき持っている固定した性質というより、コノテーションの宛先がどれだけ一つに絞り込まれているか、という程度の問題として説明される。ここにも、アルノーたちが個々の語を孤立した項目としてではなく、言語全体を貫く意味のしくみの中の一点として捉えていたことが、よく表れている。

まとめ

論点内容
出発点実体を意味する語=実体詞、偶有を意味する語=形容詞
精密化の鍵「意味している内容」より「意味のしかた」——コノテーションの有無
形容詞の二重構造属性を明確に、主語をぼんやりと。同時に二つを意味する
逆説主語は直接だがぼんやりと(in recto, confuse)、属性は間接的だがはっきりと(in obliquo, distincte)
例外「王」「哲学者」など職業名は、コノテーションの宛先が「人間」一つに決まるため、実体詞のように単独で立つ

「コノテーション」ということばそのものは、19世紀以降の論理学(ミルの内包・外延)や、20世紀の意味論(フレーゲの意義と指示)にも形を変えて受け継がれていく主題だ。一語が「はっきり意味すること」と「ぼんやり指すこと」を同時にこなしている、というこの観察は、350年以上前に、フランス語の形容詞一つから始まっていた。

なぜ今も読まれるか

「コノテーション」という語自体は、今では日常語としても「言外の含み」というくらいの意味で使われる。だが、アルノーとランスロがこの語に込めていた中身は、もっと精密だった——一つの語が、はっきりした意味とぼんやりした指し示しを同時に担っている、という統辞論・意味論にまたがる観察だ。単なる「含み」ではなく、文法的な振る舞い(なぜ形容詞は単独で文を終えられないのか、なぜ名詞と自由に組み合わさるのか、なぜ職業名だけは例外的に単独で立てるのか)を説明する道具立てとして使われている点が、この語の現代的な用法とは一線を画している。現代の意味論では、この種の二重性は「内包(intension)」と「外延(extension)」の区別、あるいは述語論理における「変項の束縛」といった道具立てで扱われる。「白い(x)」という述語は、xという変項——コノテーションの宛先に相当する——を一つ持ち、その変項に何が代入されるかによって、「白い雪」にも「白い紙」にもなる、という現代の記法は、アルノーたちが「コノテーション」という言葉で捉えようとしていた事態を、形式的に書き直したものに近い。だが道具立てが精緻になった今も、出発点にある問い——「白い」という一語が、なぜ「白さ」と「白いもの」の両方を、同時に、しかも違う明確さで意味してしまうのか——という問いそのものは、17世紀のこの一章が立てたときと変わらず新鮮なままだ。形容詞という、文法の中でもとりわけ地味な品詞の中に、これほど入り組んだ意味の仕掛けを見出した観察眼こそ、この文法書が350年以上読み継がれている理由だろう。「王」のような職業名が実体詞と形容詞のあいだを揺れ動く境界事例として扱われている点も含め、著者たちは規則を上から押しつけるのではなく、実際の言葉づかいの中にある微妙なゆらぎを丹念に拾い上げながら、理論を組み立てていた。次の記事では、この同じ観察眼が動詞へと向かう——一見単純な「肯定する」という働きの奥に、どれほど精密な構造を見出すことになるかを見ていく。