「神は見えない、そのお方が世界を創った」——やさしく読む(後半)で見たとおり、私たちは一見単純な一文の中に、実は二つの判断(神は見えない/そのお方が世界を創った)を畳み込んでいる。この圧縮を可能にしているのが関係代名詞だ。だが第2部・第9章の「続き」でアルノーとランスロが示すのは、関係代名詞がいつも同じように働くわけではない、という事実だ。ラテン語・ヘブライ語・ギリシア語・フランス語を横断しながら、著者たちは関係代名詞の中に隠れた二つの役割——代名詞であることと、接続詞であること——を、実例ひとつひとつからあぶり出していく。

1. 関係代名詞の二つの顔、三つの組み合わせ

関係代名詞(qui, que, quem…)は、実は二つの仕事を同時にこなしている、と著者たちは言う。一つは、先に出てきた名詞の代わりを務める「代名詞」としての仕事。もう一つは、二つの命題を一つの文へつなぎ合わせる「接続詞」としての仕事だ。

ce que nous avons dit des deux usages du relatif, l’un d’être pronom, et l’autre de marquer l’union d’une proposition avec une autre, sert à expliquer plusieurs choses dont les grammairiens sont bien empêchés de rendre raison.

関係代名詞の二つの用法——一つは代名詞であること、もう一つは一つの命題と別の命題との結びつきを示すこと——について私たちが述べたことは、文法家たちがうまく説明できずにいる多くの事柄を解き明かすのに役立つ。

普段はこの二つが同時に働いている。だが著者たちは、実際の文章を丹念に集めることで、片方の役割だけが前面に出て、もう片方がほとんど消えてしまう場合があることを発見する。全部で三つの型に分けられるという。

関係代名詞=代名詞(誰・何を指す)+接続詞(二文をつなぐ) 型① 両方を保持 型② 接続詞だけ残る 型③ 代名詞だけ残る ラテン語 in quibus ヘブライ語/quod/仏 que 文頭の qui/ギリシア語 ὅτι
関係代名詞の三つの型。代名詞と接続詞、どちらがどれだけ残るかで実際の文の読み方が変わる。図:ToL

2. 型①——代名詞と接続詞、両方の力を保つ

もっとも標準的な型では、関係代名詞は代名詞でもあり接続詞でもある。著者たちはティトゥス・リウィウスの一節を例に取る——ユニウス・ブルトゥスについて語る場面で、「自分の兄が伯父に殺されたと聞いた、市の有力者たちの中に(in quibus)いた」という文だ。

il est visible que in quibus est là pour et in his ; de sorte que la phrase est claire et intelligible, si on la réduit ainsi : Quum primores civitatis, et in his fratrem suum interfectum audisset.

in quibus はそこで「そして、その中に(et in his)」の代わりをしているのは明らかだ。実際、文はこう言い換えれば明快になる——「市の有力者たちがいて、その中に、自分の兄が殺されたと彼が聞いた」。

つまり in quibus は、「市の有力者たち」を指す代名詞の働きと、「そして」という接続詞の働きを、一語の中に同時に担っている。この二重性を見抜かないかぎり、文法家たちはこの一節をうまく分解できない、と著者たちは指摘する。

3. 型②——代名詞の力を失い、接続詞だけが残る

だが関係代名詞は、ときに代名詞としての力をほとんど失い、ただの接続詞になってしまうことがある、と著者たちは言う。二つの実例が挙げられる。

一つ目はヘブライ語に特有の言い回しだ。関係代名詞が命題の主語ではなく属性の一部でしかないとき(たとえば「風が吹き飛ばす塵(pulvis quem projicit ventus)」のような文)、ヘブライ語話者は関係詞に接続詞としての働きしか残さず、代名詞としての働きは別に指示代名詞を立てて表現する——まるで関係詞がそこにないかのように、「風が、それを、吹き飛ばす(quem projicit eum ventus)」というふうに、代名詞を二重に置いてしまう。

les Hébreux alors ne laissent au relatif que le dernier usage… et pour l’autre usage, qui est de tenir la place du nom, ils l’expriment par le pronom démonstratif… de sorte qu’ils disent : quem projicit eum ventus.

ヘブライ人はそのとき関係詞に後者の用法(接続の働き)だけを残す……そして名詞の代わりを務めるもう一つの用法は、指示代名詞によって別に表現する……こうして「風が、それを、吹き飛ばす」と言うのだ。

著者たちによれば、この言い回しは新約聖書にも受け継がれている——使徒ペトロがイザヤ書の一節を踏まえてキリストについて語る場面(「その打たれた傷によって、あなたがたは癒やされた」)に、まさに同じヘブライ語的な二重表現が現れるという。文法家たちはこの二重性の理由を理解できず、「無意味な冗語(pléonasme)」だと片付けてきたが、実はヘブライ語の関係詞が接続詞としての機能しか残していないという事情を知れば、少しも不合理ではない、と著者たちは主張する。

二つ目の実例はラテン語そのものの中にある。リウィウスは、トゥスクルム人を罰するべきだと民衆に提案する護民官マルクス・フラウィウスについて、「彼らの助力と計略によって(quorum eorum ope ac consilio)」と書いている。quorum(本来「彼らの」を意味する関係代名詞属格)のすぐ後に、同じ意味の指示代名詞 eorum が重ねて置かれているのだ。これがあまりに不自然に見えるため、一部の学者は quorum を quod(〜ということ)の誤記だと考えたが、著者たちは最良の写本・版がすべて quorum eorum と一致していることを指摘し、これは誤記ではなく、quorum がここでは純粋に接続詞として機能している証拠だと論じる。プラウトゥスの喜劇『トリヌンムス』にも同じ構文(quorum eorum unus…)が見つかるという。

同じ原理は、ラテン語の quod をめぐる文法家たちの有名な論争も解決する、と著者たちは続ける。キケロが「あなたがあの男から強奪したこと(quod hominem spoliasti)を私は咎めているのではない」と言うときの quod だ。ある文法家はこれを副詞・接続詞だと言い、別の文法家は関係代名詞の中性形だと言う——著者たちの答えは「両方とも半分正しい」というものだ。quod は依然として関係代名詞であり、先行詞との関係を保ってはいるが、代名詞としての中身(主語や属性の一部を成す働き)はすでに失われていて、残っているのはただ、hominem spoliasti という完結した命題を、Non tibi objicio という主文の一部分に格下げする接続の働きだけだ、という。

そしてこの原理は、フランス語の que にもそのまま当てはまると著者たちは付け加える。「あなたが賢明であることを私は仮定する(je suppose que vous serez sage)」の que は、まさにラテン語の quod の子孫であり、同じように代名詞の性質をすっかり脱ぎ捨てて、ただの接続の印になっている。

Non tibi objicio [ quod ] hominem spoliasti. (あなたがあの男から強奪した = 完結した一文) quod は代名詞の中身を失い、この一文を主文の「部分」へと格下げする接続の印だけを残す 同じ働きが仏語 que(je suppose que...)に受け継がれる。
quod/que は「完結した一文」を「主文の一部分」へ格下げする接続の印。図:ToL

4. 型③——接続の力を失い、代名詞だけが残る

型②とは逆に、関係代名詞が接続詞としての力をほとんど失い、指示代名詞としての働きだけが残る場合もある。著者たちはここでも二つの実例を挙げる。

一つ目はラテン語に特有の書き出しの文体だ。ラテン語の著述家はしばしば文の冒頭を関係代名詞で始める——これは俗語には翻訳しようがなく、指示代名詞で置き換えるしかないという。大プリニウスの『パネギュリクス(皇帝トラヤヌス頌詞)』の冒頭がその例だ。「祖先たちは、事を行うにも語るにも、祈りから始めることを、良く賢明に定めた……この慣習は、執政官によってこそ、何よりもふさわしく尊ばれるべきではないか(Qui mos…)」——この Qui(関係代名詞)は、直前の文を受けて新しい一文を始めているにすぎず、著者たちが言うには、フランス語に訳すなら「laquelle coutume」ではなく「cette coutume(この慣習)」とすべきだという。つまりここでの関係詞は、接続の働きをほとんど失い、単なる指示代名詞になっている。キケロの『ウェッレス弾劾演説』にも同種の例が見られるという。

もう一つの実例は、ギリシア語の ὅτι(ホティ)だ。この語はしばしばラテン語の quod と対応関係にあり、同じ関係代名詞に由来するにもかかわらず、両者の働きはむしろ正反対だ、と著者たちは指摘する。quod が接続の力だけを残して代名詞の中身を失うのに対し、ὅτι はしばしば逆に、接続の力を失って代名詞の中身だけを残す。ヨハネの黙示録第3章で、キリストが自己満足に陥った教会(ラオディキアの司教)を叱責する場面がその例だという——「あなたは『私は富んでいる』と言う(λέγεις ὅτι πλούσιος εἰμι)」。ここでの ὅτι は「私はあなたに語りかけているこの私(ego)が富んでいる、ということ」を意味しているのではなく、「あなたはこう言う、すなわち『私は富んでいる』」という、独立した二つの文を並べているにすぎない——ὅτι はここでは関係詞としても接続詞としても機能しておらず、いわば「すなわち」を示す指示の印だけが残っている、という。

まとめ

関係詞の働き実例
① 代名詞+接続詞(標準型)両方の力を保つラテン語 in quibus(リウィウス、ユニウス・ブルトゥスの逸話)
② 接続詞だけが残る代名詞の中身を失い、二文をつなぐ印だけになるヘブライ語の quem…eum(1ペトロ2:24 に並行)、ラテン語 quorum eorum(リウィウス、プラウトゥス)、quod(キケロ)、仏語 que
③ 代名詞だけが残る接続の力を失い、指示の働きだけになるラテン語の文頭の qui(プリニウス『パネギュリクス』、キケロ『ウェッレス弾劾』)、ギリシア語 ὅτι(黙示録3:17)

なぜ今も読まれるか

現代の統辞論では、関係代名詞の二重性は「主要部内在型関係節」や「補文標識(complementizer)」といった術語で扱われ、フランス語の que や英語の that が「関係詞」と「接続詞(従属節標識)」の両方の顔を持つことは、統辞理論の教科書的な出発点になっている。だがアルノーとランスロは、その区別を抽象的な規則としてではなく、ラテン語・ヘブライ語・ギリシア語・フランス語という複数の言語の実例を突き合わせることで——しかも聖書の言い回しから写本の異同にいたるまで、細部を確かめ抜いたうえで——導き出していた。一つの語が、あるときは代名詞として、あるときは接続詞として、あるときはその両方として働く、という発見は、彼らが繰り返し立てていた問い、すなわち「一つの文の中に、いくつの判断が隠れているか」という問いの、もっとも精密な答えの一つになっている。