概要で「言語の形式とは、思考を音にする恒常的なやり方だ」と書いた。抽象的な言い方だ。具体的には何を指すのか。フンボルトの「形式(Form)」を、原文でほどく。

1. 素材(Stoff)と形式(Form)

素材(Stoff)= 人類に共通 ・声を出す身体(発声器官) ・思考されうるものの全体 形式(Form)= 言語ごとに違う ・音をどう区切り、組み合わせるか ・概念をどう作り、どう関係づけるか = 孤立した事実の集まりではなく、一貫した「方法」
素材は人類共通。その素材を組織する「方法」が形式であり、言語ごとに異なる。図:L/LAB

言語には、どの言語にも共通する素材(Stoff) がある——声を出す身体と、思考されうるものの世界。だが、その素材をどう組織するかは言語ごとに違う。この組織のしかたが形式(Form) だ。ここでフンボルトは念を押す。形式とは細かい規則の寄せ集めではない——言語の形式という概念には「いかなる個別事項も、孤立した事実としては取り込まれてはならない。それに言語形成の方法eine Methode der Sprachbildung)が見てとれるかぎりにおいてのみ」取り込まれる、と(ドイツ語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ)。

つまり「英語には三単現の -s がある」は、それ自体は形式ではない。その背後に、英語という言語が主語と述語をどう噛み合わせる「方法」を取っているか——それが読みとれて初めて、形式の話になる。

2. 外的形式と内的形式

外的形式(Lautform)= 音の体系・語形・語順 内的(言語)形式= 概念の作り方、文法カテゴリーの立て方、 関係のつけ方(= 思考をどう分節するか) 「内的言語形式(innere Sprachform)」という術語は、のちにシュタイントールが整えた
音の層(外的形式)と、その下で概念を組織する層(内的形式)。フンボルトの関心は主に後者にある。図:L/LAB

フンボルトの「形式」には二つの面がある。外的形式(Lautform)——音の体系、語のかたち、語順。そして、その下で働く内的な形式——概念をどう作り、文法カテゴリー(時制・数・格・態……)をどう立て、語と語の関係をどうつけるか。思考という連続体を、どこで切って分節するか。フンボルトが「言語ごとに違う」と繰り返し言うのは、主にこの内的な面だ。のちにハイマン・シュタインタールが、これを「内的言語形式(innere Sprachform)」という一語に整えた。

3. 言語は「対象」ではなく「対象の捉え方」を表す

象(対象) 「二度飲む」(鼻と口で)→ 語 A 「二本の牙のもの」→ 語 B 「手を持つもの」(鼻を手と見て)→ 語 C 対象は一つ。だが捉えた特徴が違えば、別の概念=別の語になる。
サンスクリットの三つの「象」の語。語が指すのは対象そのものではなく、精神が対象について作った概念。図:L/LAB

フンボルトの有名な例。

サンスクリットで象が、あるときは「二度飲むもの」、あるときは「二本の牙のもの」、あるときは「手を持つもの」と呼ばれるとき、指されている対象は同じでも「同じ数だけ異なる概念が名ざされている」。理由をフンボルトはこう言う。

Denn die Sprache stellt niemals die Gegenstände, sondern immer die durch den Geist in der Spracherzeugung selbstthätig von ihnen gebildeten Begriffe dar. (For language never presents the objects, but always the concepts formed from them, actively, by the mind in the generation of language.)

というのも、言語は対象そのものを差し出すのではなく、つねに、言語を産み出す精神が対象から自ら作りあげた概念を差し出すからである。

語は対象への貼り紙ではない。語は、精神が対象をどう捉えたかを固定したものだ。「二度飲む者」と「牙が二本のもの」は、辞書では同義語に見えても、内的形式のレベルでは別の概念である。

4. だから、翻訳では「形式」がずれる

対象が同じでも捉え方が違う——これは異言語間で顕著になる。英語の homehouse、日本語の「青」が覆う範囲(信号、若葉、海)、親族名称の切り方(英語 brother /日本語「兄・弟」)。指示対象は重なっても、内的形式が違うから、同じ価値にはならない。翻訳が難しいのは語彙が足りないからではなく、概念の切り分け方=形式がずれているからだ。フンボルトはこれを、次記事の主題「世界観」へとつなげていく。

5. ソシュール・サピア・ヴァイスゲルバーへ

思考の連続体(それ自体は区切りなし) 言語 A の区切り 言語 B の区切り(位置が違う)
連続体それ自体に区切りはない。どこで切るかが「形式」。これはソシュールの「一枚の紙」の図と同じ発想。図:L/LAB

まとめ

フンボルトの主張言い換え
素材(発声・思考可能なもの)は人類共通、形式は言語ごと何を持っているかでなく、どう組織するかが言語を分ける
形式とは孤立した事実でなく、一貫した「方法」「-s がある」でなく「どう主述を噛み合わせるか」
内的形式=概念の作り方・文法カテゴリー・関係のつけ方「内的言語形式」はシュタイントールの術語化
語は対象でなく「対象の捉え方(概念)」を表すサンスクリットの三つの「象」
→ ソシュールの価値、サピアの形式/機能、ヴァイスゲルバーの中間世界「連続体をどこで切るか」が形式

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フンボルト特集:概要エネルゲイア/本記事/世界観有限の手段の無限の使用思考の器官・対話類型と序列