前の記事で読んだ「語彙より文法を見よ」という方法論は、書斎にこもって古文書だけを読み込んだ学者が思いついたものではない。むしろ逆だった。ラスクは、当時のヨーロッパの言語学者としては破格の距離を、実際に旅して回った人物である。
田舎の靴屋の息子、大学へ
ラスクはデンマークの小さな村ブレナキレに生まれた。父は仕立て屋だったとも伝えられる、けっして裕福ではない家庭の出身である。だが幼いころから並外れた語学の才を示し、奨学生としてコペンハーゲンのラテン語学校、続いてコペンハーゲン大学に進む。すでに学生時代からアイスランド語をはじめ、複数の言語に通じていたという。1814年、27歳のときに、この特集で読んできた懸賞論文を書き上げる。
ロシア、ペルシア、そしてインドへ
論文の刊行から間もない1816年、ラスクはコペンハーゲンを離れ、長い旅に出る。スウェーデン、フィンランドを経てロシアへ、さらにコーカサスを越えてペルシア(現在のイラン)へ、そして最終的にはインド、セイロン(現在のスリランカ)にまで足を延ばした。旅の目的は、現地の言語を学び、写本を収集することだった。この旅で彼が持ち帰った成果のなかには、ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』の写本も含まれている——のちのヨーロッパにおける古代イラン語研究の土台の一部になった収穫である。
過酷な旅の代償
この旅は、単なる知的な冒険ではなかった。気候も衛生状態も厳しい土地を長期間にわたって移動し続けることは、当時としては身体への大きな負担でもあった。1823年にコペンハーゲンへ戻ったのちも、ラスクは旺盛に著作を続けたが、健康はすでに損なわれていたと伝えられる。1832年、44歳で世を去った——旅から戻ってわずか9年後のことである。
現場を歩いた言語学者
ラスクの方法論——「語彙より文法」——が、机上の思いつきではなく、実地で鍛えられた確信だったことは、この経歴を知るとよくわかる。数多くの言語を実際に学び、借用語がどれほど簡単に言語の境界を越えるかを、理論としてではなく、旅先で直接見聞きしていたはずだ。この特集の次の記事では、こうした経験の土台の上に立つ、方法論そのものの原文を、あらためて精読する。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 出身 | デンマークの村ブレナキレ、裕福ではない家庭 |
| 学業 | コペンハーゲン大学で語学の才を示す。1814年、27歳で懸賞論文を執筆 |
| 旅程(1816〜23年) | スウェーデン・フィンランド・ロシア・ペルシア・インド・セイロン |
| 旅の成果 | 現地語の習得、『アヴェスター』写本などの収集 |
| 死 | 1832年、44歳。旅の過酷さも一因とされる |
一言でいえば——ラスクの「文法を見よ」という助言は、書斎の理論ではなく、実際に大陸を横断し、無数の言語に身をさらした経験から鍛え上げられたものだった。