前の記事で紹介したとおり、シュライヒャーは言語学者である前に、熱心なアマチュア植物学者だった。この経歴が、彼の言語観の出発点にある。
「生きている」けれど「歴史」がない、とはどういうことか
シュライヒャーは、著書の中でこう言い切る——言語は、あらゆる自然の有機体と同じように「生きて」いる。しかし、人間のように「行為する」わけではないので、「歴史」という言葉を厳密な意味で使うなら、言語に歴史はない、と。
一見、矛盾しているように聞こえる。「生きている」のに「歴史がない」とは、どういうことだろうか。
植物学者の視点で考えると、筋が通る
ここでシュライヒャーの本業——植物学——を思い出してほしい。一本の樫の木は、確かに「生きて」いる。芽吹き、育ち、枝を伸ばし、やがて枯れる。しかし、樫の木は「歴史」を持つだろうか。 樫の木は、意思をもって何かを選び取ったり、決断したり、記録を残したりはしない。ただ、内在する自然の法則にしたがって、生まれ、育ち、変化し、朽ちていくだけである。
シュライヒャーは、言語もこれと同じだと考えた。人間が言語を「使う」からといって、言語そのものが人間のように「歴史をつくる主体」なのではない。言語の変化は、人間の意思や政治や文化の「歴史」の産物ではなく、樫の木の成長のような、自然の法則にしたがう「生命現象」なのだ——というのが、シュライヒャーの主張の核心である。
なぜこの区別が重要なのか
この区別は、単なる言葉遊びではない。もし言語の変化が「歴史」——つまり人間の意思や社会状況の産物——なら、言語の変化を研究するには文献学や歴史学の手法が必要になる。しかし、言語の変化が樫の木の成長のような「自然の生命現象」なら、言語の研究は、植物学や動物学と同じ「自然科学」の方法で扱うべきだ、という結論になる。
シュライヒャーが言語学に持ち込んだのは、まさにこの発想だった。次の記事では、この自然科学的な言語観から導かれる、もう一つの大きな主張——言語の歴史は「進歩」ではなく「発展のあとの衰退」だという考え方——を見ていく。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 主張 | 言語は「生きている」が、人間のような「歴史」は持たない |
| 根拠となる比喩 | 樫の木のような自然の有機体——意思をもって行為しない |
| 帰結 | 言語研究は自然科学(植物学・動物学)の方法で扱うべきだ、という立場 |
一言でいえば——シュライヒャーにとって、言語の変化は人間が「つくる」歴史ではなく、樫の木が育つのと同じ、自然が「起こす」出来事だった。